第2話:孤独と希望(前編)
時間の感覚が、なかった。光も、音も、匂いさえも存在しない、絶対的な無の海。俺の意識は、その深淵を、ただ漂っていた。肉体という檻から解き放たれた魂は、あるいはこれほどまでに自由で、そして孤独なのだろうか。
最初に世界との繋がりを取り戻したのは、聴覚だった。
チチチッ、と。どこか遠くで、甲高い金属音のような、それでいて生命の温もりを感じさせる鳴き声がする。鳥だ。だが、俺の知るどんな鳥の声とも違う、澄み切った旋律。次いで、サラサラと、水が流れる音。それは、無機質な宇宙船の循環システムの音ではない。岩を洗い、苔を撫でる、自然のせせらぎ。
次に、ぼやけた光が、意識の膜を透過してきた。瞼の裏が、ゆっくりと白んでいく。重い。鉛を飲まされたかのように、身体が重い。
「うっ…くそっ…」
絞り出した声は、ひどく掠れていた。喉が、焼けるように痛い。全身を鈍器で繰り返し殴られたかのような鈍痛が、俺の意識を、乱暴に現実へと引きずり戻した。だが、その痛みこそが、俺が「存在している」という、何より雄弁な証明だった。
ゆっくりと目を開ける。視界は、まだピントが合わず、光が滲んで見える。見慣れた金属の壁。アルカディア号のコックピットだ。奇跡的に、いや、アイの最後の抵抗のおかげか、この区画だけは、原型を留めているらしい。
右手を床につけて、身を起こそうとした。
「ぐっ…ぁっ!」
手首に、骨が軋むような激痛が走り、思わず呻く。折れているか、少なくともヒビは入っている。全身の筋肉が、宇宙空間に長時間曝されたかのように硬直し、自分の身体でありながら、まるで他人のもののように言うことを聞かない。墜落の衝撃、そしてあの未知のエネルギーの奔流が、俺の身体にこれほどの負荷をかけていたのか。
だが、それでも。
俺は、生きている。
あの絶望的な状況下で、限りなくゼロに近い確率を乗り越えて、生き永らえている。その事実が、じわじわと、しかし圧倒的な熱量を持って、俺の心を焦がしていく。
「…マジかよ……生きてるじゃないか……」
最初は、か細い呟きだった。それが、次第に熱を帯び、確信へと変わる。
「生きてる…! 生きてるぞぉぉぉぉぉぉぉぉぉっ――!」
全身の痛みを忘れ、俺は腹の底から絶叫した。声が、ひび割れたガラスのように、狭いコックピットに響き渡る。宇宙の深淵に呑み込まれ、永遠の闇に閉ざされることを覚悟した俺が、今、ここにいる。命が、ある。その、あまりにも単純で、あまりにも尊い事実が、俺の心を歓喜で満たした。
興奮のまま、俺は、ただ一つの、かけがえのない相棒の名を叫んだ。
「アイッ! アイは大丈夫か!? おい、返事をしろ、アイ!」
俺の荒い息遣いに応えるように、目の前の空間が、淡く揺らめいた。青白い光の粒子が、ゆっくりと収束し、半透明の少女の姿を形作っていく。その光は、いつもよりずっと弱々しく、まるで消え入りそうなロウソクの炎のようだった。
「マスター……ご無事、ですか」
感情が削ぎ落とされた、しかし、俺にとってはどんな音楽よりも心地よい、冷静な声。
「ああ、なんとか……。お前こそ、無事だったのか」
「はい。主動力炉からのエネルギー供給は途絶しましたが、予備バッテリーからの最低限の電力で、私のメインコアは維持されています。ですが、マスター……」
アイのホログラムが、窓の方へと視線を向けた。俺も、痛む身体に鞭を打ち、窓へと這い寄る。
そこに広がっていたのは、俺の知る、どんな世界の風景とも違う、異質な森だった。墜落したアルカディア号の船体は、巨大な樹々の間に、まるで巨獣の骸のように突き刺さっている。その樹々は、天を衝くほどの高さで、その葉は、深緑というよりは、光を吸収する漆黒に近い色をしていた。木々の間から差し込む陽光は、どこか神秘的な、あるいは不気味な青白い輝きを帯び、この星が、俺の故郷とは全く異なる物理法則の下にあることを、雄弁に物語っていた。
「……俺たちは、本当に助かったのか」
俺の呟きに、アイは機械的ながらも、微かな安堵を滲ませた声で応えた。
「はい。最終的には理論上0.09パーセントという極限の生存確率を、マスターと私が連携することで突破しました。ただし、機体の大半は壊滅。主動力炉は損傷が大きく、星間移動能力は、完全に失われました」
生存確率0.09パーセント。その数字の重みが、今更ながら俺の全身を打ちのめした。アイの言葉通り、奇跡だ。だが、それは同時に、絶望の始まりを告げていた。
「主動力炉が壊滅……。つまり、ワープも、通常航行も、不可能ってことか」
俺の問いに、アイは沈黙で肯定した。故郷の青い空も、懐かしい街の喧騒も、もう二度と見ることはない。俺は、宇宙の孤児となったのだ。さっきまでの生存への歓喜は、急速に色褪せ、無限の孤独という名の、冷たい闇が、俺の心を再び覆い尽くそうとしていた。
「ここから…どうする…」
誰にともなく呟く。この見知らぬ星で、たった一人。俺は、これからどうやって生きていけばいいのか。生きる意味など、あるのだろうか。虚無感が、思考を麻痺させていく。
「まずは……残骸を調べてみるか」
痛みと倦怠感に耐えながら、俺は立ち上がった。希望があるのか、絶望が待つのか。それはまだ分からない。だが、少なくとも、俺は生きている。そして、この未知の惑星には、「何か」がある。
「アイ。船外環境を報告しろ。大気組成は?」
「はい、マスター。大気組成は、窒素74.4%、酸素25%、アルゴン0.5%、二酸化炭素0.034%。その他、データベースに存在しない希ガスおよび有機化合物が微量に検出されています。マスターの生命維持に支障はありません」
「未知の有機化合物……墜落時に観測された高エネルギー反応とは別物か?」
「はい。エネルギー反応は大気圏上層部に偏在していますが、未知物質は地表付近で検出。両者の間に関連性は見られません」
「そうか。……病原体リスクは?」
「マスターの体内を循環する医療用ナノマシン群が、常に抗体情報をアップデートしています。未知のウイルスや細菌類に対しても、即時対応が可能です」
「……その予測、確度は?」
「マスターの生体防御システムに対し、即時的な脅威となる可能性は0.01%未満と算出。既知の病原体との類似性も確認されません」
「分かった……。エアロックを開けるぞ」
俺は、意を決して立ち上がる。右手の痛みをこらえながら、ハッチの開閉レバーに手をかけた。これから始まるのは、故郷への帰還という甘い夢ではない。ただ、生きるための、過酷なサバイバルだ。
重い金属音と共に、ハッチがゆっくりと開かれた。流れ込んできたのは、地球や宇宙コロニーの人工的な空気とは全く違う、濃厚な生命の匂いだった。湿った土と、これまで嗅いだことのない甘やかな花の香りが混じり合い、肺を深く満たす。
一歩、船外へと足を踏み出す。足元には、柔らかな苔が絨毯のように広がり、見上げる空は、木々の黒い葉に覆われて、まるで深い海の底から天を見上げるようだった。
広大な宇宙のどこかに、ただ一人(と一体)で取り残された。その圧倒的な孤独と、目の前に広がる未知の世界。希望と絶望が入り混じる、俺の新しい人生が、今、静かに始まろうとしていた。