第176話:儀式の始まり
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夜明け。その光は、神殿都市ソラリスにおいては、地上とは異なる意味を持っていた。雲海の下からゆっくりと姿を現す太陽は、まずこの天空都市の白亜の尖塔を黄金色に染め上げ、やがて、その光は街全体に、まるで神の祝福が降り注ぐかのように満ちていく。
二十年に一度の「星迎えの儀」が、今、始まろうとしていた。
街は、荘厳な静寂と、抑えきれない熱狂という、相反する二つの感情に支配されていた。大聖堂へと続く中央参道には、大陸中から集まった、数万の巡礼者たちが、祈りを捧げるために隙間なくひざまずいている。彼らの顔には、長旅の疲労と、この聖なる日に立ち会えることへの、純粋な歓喜が浮かんでいた。彼らは、これから始まる奇跡を、一点の疑いもなく信じている。
大聖堂の巨大な鐘が、七度、鳴り響いた。空気を震わせるその荘厳な音色は、儀式の始まりを告げる合図だ。
鐘の音が止むと、天上の音楽が地上へと降り注ぐ。大聖堂の聖歌隊が、古の言語――古代エルフ語で紡がれた、神聖な聖歌を歌い始める。その歌声は、ソラリスの澄み切った大気に共鳴し、人の魂を直接揺さぶるような、不可思議な力を持っていた。
何も知らぬ者たちにとっては、それはただの美しい聖歌。だが、その真実を知る俺の耳には、それは全く別の響きとして聞こえていた。
〈アイ。……始まったな〉
俺は、ソラリスの地下深く、古代のエネルギーラインが走る薄暗い回廊を、聖殿騎士団の精鋭たちと共に、息を殺して進んでいた。
《はい、マスター。聖歌の詠唱が開始されました。音声認証プロトコル、フェーズ1に移行します》
アイの冷静な声が、脳内に響く。俺の網膜には、この地下遺跡の三次元マップと、聖歌の周波数パターンを示すグラフが、リアルタイムで表示されている。
「教皇聖下、そしてカガヤ殿の予測通り……。敵は、必ず、この音に反応するはずだ」
俺の隣を進むのは、今回の極秘作戦の指揮を任された、聖殿騎士団の団長、マティウスだった。彼は、教皇デオフィロス七世が最も信頼を置く、探究派の騎士だ。その顔には、長年抱いてきた教会の欺瞞と、今まさに始まろうとしている真実の戦いを前にした、複雑な覚悟が刻まれている。
地上の華やかな儀式と、地下の冷たい闇。二つの舞台で、この世界の運命を賭けた、静かなる戦争の火蓋が、今、切って落とされた。
◇
セレスティアは、『聖別の間』で、最後の祈りを捧げていた。純白の絹で織られた、『星の乙女』だけが纏うことを許された聖衣。その繊細な布地が、彼女の肌に触れるたびに、自らが背負う宿命の重さを、改めて感じていた。
(コウ……。あなたの信じる『理』と、私の信じる『祈り』。今、その二つが、一つになろうとしています)
怖い。足が震え、心臓が、今にも張り裂けてしまいそうだった。だが、それ以上に、彼女の心を満たしていたのは、彼と共に戦えるという、確かな高揚感だった。王都のテラスで交わした約束。もう、守られるだけの自分ではない。
侍女に促され、彼女はゆっくりと立ち上がる。扉の向こうには、大聖堂の祭壇へと続く、長い、長い回廊が続いている。その先で、数万の民が、そして、彼が待っている。
一歩、また一歩と、祭壇へと歩みを進める。彼女の歩みに合わせ、聖歌隊の歌声は、さらにその神聖さを増していく。民衆の祈りが、熱波となって彼女の肌を打つ。
だが、その荘厳なハーモonyの中に、彼女だけが感じ取れる、不快なノイズが混じり始めていた。キィン、と耳鳴りのように響く、歪んだ音。それは、彼女の魂に直接干渉し、不安を掻き立てる、邪悪な囁きだった。
(……始まったのですね)
セレスティアは、目を閉じ、自らの心の奥底に、彼との絆を、強く思い描いた。大丈夫。彼は、必ず来てくれる。
◇
「マスター! 敵の干渉波を確認! 第七セクターのジャンクションポイントより、汚染された聖句が、エーテロン・ネットワークに注入され始めました!」
アイの警告と同時に、俺の網膜に表示されていた聖歌の周波数グラフが、大きく乱れた。美しい正弦波に、ノコギリの刃のような、鋭く、不規則な波形が重なり合っていく。
「マティウス団長。 敵が動き出した。ポイントは、ここから三百メートル先だ」
「全速力で進め! 異端者どもに、鉄槌を下せ!」
マティウスの号令一下、聖殿騎士たちが、白銀の鎧を鳴らし、一斉に駆け出した。
地下回廊の奥、開けた空間に、彼らはいた。十数人の、黒いローブをまとった者たち。彼らは、巨大なエネルギーパイプラインが交差するジャンクションポイントに、奇怪な装置を設置し、何らかの儀式を行っている。松明の光が、彼らのローブの胸元を照らし出し、そこに刺繍された一つの紋章が、俺の目に飛び込んできた。灯された松明と、交差する二振りの剣、そして、それらを取り巻くように描かれた、断ち切られた鎖。
〈……間違いない。あれが、教皇の言っていた『鎖の紋章』……!〉
俺の脳裏に、緊張が走った。
「来たか、教会の犬どもめ!」
俺たちの存在に気づいた一人が、嘲るように叫んだ。
「遅かったな。すでに、『我が母』の耳には、我らの声しか届かぬ。お前たちの祈りなど、ただの雑音に過ぎん!」
その言葉を合図に、信者たちが、一斉にこちらへと襲いかかってきた。
〈アイ! 敵の戦闘パターンを解析!〉
《了解!……警告、マスター! 彼らの戦闘能力は、シエルで遭遇した『炎の紋章』のそれを、遥かに上回ります!》
アイの言う通りだった。彼らの動きには、狂信者のような無謀さはない。訓練された兵士のように、冷静で、そして効率的に、騎士たちの陣形を崩しにかかる。
「斥力キャノン!」
俺は、腕の触媒から不可視の斥力弾を放ち、先頭にいた信者の一人を吹き飛ばそうとした。だが、男は咄嗟に仲間を盾にし、自らは衝撃を殺して後方へ跳躍。盾にされた信者は壁に叩きつけられて沈黙したが、敵の陣形は一切乱れていなかった。
〈こいつら……! 俺の技の特性を、理解しているのか!?〉
「無駄だ、異邦人! 貴様のその小賢しい手品は、すでに解析済みだ!」
指導者らしき仮面の男が、冷たく言い放つ。
「貴様がシエルで、そして王都で何をしてきたか。その全てを、我らは観測させてもらった。貴様の力の正体も、その限界もな!」
奴らは、ずっと、俺を監視していたというのか。背筋を、氷のような悪寒が走り抜ける。
戦いは、熾烈を極めた。表の神聖な儀式とは対照的に、地下では、鋼と鋼がぶつかり合う、血生臭い死闘が繰り広げられる。
騎士たちが、一人、また一人と、敵の凶刃に倒れていく。
〈くそっ、このままでは……!〉
俺は、焦りを押し殺し、戦況を冷静に分析する。敵の狙いは、俺たちをこの地下に釘付けにし、時間を稼ぐことだ。その結論に至った瞬間、まるで冷水を浴びせられたかのような悪寒が背筋を走った。俺たちがこの血生臭い闇の中で足止めされている間にも、地上の儀式は、数万の祈りに後押しされ、否応なくクライマックスへと向かっているのだ。
◇
一方、地上の大聖堂では、地下の死闘を知る由もない数万の巡礼者たちの祈りに包まれ、儀式は厳かにそのクライマックスへと向かっていた。
聖歌隊の歌声は一つの巨大な音の波となり、大聖堂の天蓋を震わせる。祭壇を照らす光は、天窓から差し込む陽光から、都市の地下から供給されるエーテル光へと切り替わり、周囲の空気をより一層神聖で、非現実的なものへと変えていく。
祭壇へと続く、最後の十三段の階段。セレスティアは、一歩、また一歩と、その白亜の石段を、祈るように踏みしめる。数万の視線が、祈りが、期待が、彼女のその華奢な背中に突き刺さる。だが、彼女の耳に届くのは、地下から響く不協和音と、彼からの声だけだった。
ついに、その頂上へとたどり着いた。目の前には、教皇デオフィロス七世が、厳かな表情で彼女を待っていた。その瞳の奥には、長きにわたる教会の罪を背負う苦悩と、最後の希望にすべてを託す覚悟が、複雑に揺らめいている。
そして、その後ろ。この都市の心臓部。古代の祭壇が、静かに、しかし圧倒的な存在感を放って脈打っていた。それは、石でも金属でもない、未知の物質でできており、表面には青白い光の回路が、まるで血管のように明滅している。神聖でありながら、同時に、触れるもの全てを飲み込みかねない、禍々しいほどのエネルギーの奔流。それこそが、セレスティアがこれから向き合う、『マザー』との接続点だった。
(コウ……。早く……)
彼女の祈りが、悲鳴に変わろうとした、まさにその時だった。
〈―――聞こえるか、セレスティア〉
脳内に、直接、彼の声が響いた。
〈―――今から、俺たちの『本当の儀式』を、始める〉
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