第175話:鎖の紋章
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教皇デオフィロス七世との謁見は、俺に、この世界の根幹を揺るガすほどの重い真実と、そして、共に戦うという覚悟を共有する、強力な協力者をもたらした。そしてそれは、これまで影に潜んでいた敵の輪郭を、俺たちが討つべき明確な「標的」として、白日の下に晒すことでもあった。
宿の自室に戻った俺の心は、静かな嵐の中の凪のように、奇妙なほど落ち着いていた。
やるべきことは、明確だ。
「アイ、ガーディアン。改めて、敵のプロファイルを再構築する。キーワードは『邪神教』、そして、その内部組織『鎖の紋章』。彼らの目的は、儀式を乗っ取り、『マザー』の制御権を奪うこと。そのための手段と、潜伏場所を、あらゆるデータから予測しろ」
《了解しました、マスター。教皇より提供された教会内部の機密情報、及び、これまでの遭遇データを統合し、脅威分析モデルを更新します》
『来訪者カガヤよ。奴らは、我らが祖の遺した『理』を、最も歪んだ形で理解している者たちだ。決して、油断するな』
ガーディアンの、古く、そして重い警告が、脳内に響く。俺たちの、見えざる敵との戦いは、すでに始まっていた。
◇
神殿都市ソラリス。その白亜の輝きの、遥か地下深く。地上を流れる人々の祈りも、荘厳な聖歌の調べも届かない、古代のエネルギーラインが網の目のように走る回廊を、数人の黒い影が、音もなく進んでいた。彼らがまとうローブには、「灯された松明と、交差する二振りの剣、そして、断ち切られた鎖を模した紋章」が、銀糸で不気味に刺繍されている。
邪神教『鎖の紋章』。
「……第7セクター、汚染された聖句の設置、完了しました」
一人が、手に持った水晶板に触れながら、指導者らしき男に報告する。
「結構。これで、地上の子羊たちがどれほど美しく鳴こうとも、『我が母』の耳に届くのは、我らの『真実の歌』だけとなる」
指導者の男は、仮面の下で、歪んだ笑みを浮かべた。『炎の紋章』のマラハのように、激情に駆られる様子はない。彼の声は、どこまでも冷徹で、そして計算され尽くした知性が感じられた。
「『炎』の連中は、あまりにも性急で、そして野蛮すぎた。破壊では、何も生まれん。真の支配とは、力で屈服させることではない。相手の思考そのものを、我らの望む形へと『調律』し、自らの意志で、我らに服従させること。それこそが、我らが主の御心に沿う、唯一の道なのだ」
彼らは、儀式で歌われる聖歌の音響パターンを解析し、それを汚染するための、特殊な干渉波を発する装置を、都市のエネルギーラインに沿って、複数設置していた。儀式が始まった瞬間に、その干渉波を流し込み、『マザー』の聴覚センサーを乗っ取る。それが、彼らの計画の第一段階だった。
「『鍵』である聖女が扉を開いた瞬間、『我が母』は、我らの声だけを聞くことになる。そして、この大陸の全ての魂は、一つの鎖の下に、永遠の秩序を得るのだ。……さあ、次のポイントへ急ぐぞ。祭りの日は、近い」
影たちは、再び、古代遺跡の闇へと、静かに溶けていった。
◇
その頃、セレスティアは、大聖堂の最上階にある、外界から完全に隔離された『聖別の間』で、一人、静かに祈りを捧げていた。
「星迎えの儀」を司る『星の乙女』として、その心身を極限まで清浄に保つための、最後の準備期間だ。部屋には、彼女の身の回りの世話をする、数人の侍女がいるだけ。華美な装飾は一切なく、ただ、壁一面に描かれた星図だけが、彼女を静かに見守っていた。
(コウ……。あなたは、気づいていますか?)
彼女は、目を閉じ、意識を集中させる。神託の力は、日に日にその精度を増し、彼女に、世界の微細な『声』を聞かせていた。それは祝福の調べなどではなく、都市の地下深くから響いてくる不協和音。鉄の鎖が擦れ合い、絡み合い、巨大な何かを縛り付けようとする、不快な金属音だった。
そのビジョンを見るたびに、彼女の心は、言い知れぬ恐怖に締め付けられた。だが、それと同時に、彼女の中には、新たな感情も芽生えていた。
(怖くないと言えば、嘘になります。けれど、もう何もできずにただ震えているだけの聖女ではありません)
王都のテラスで交わした、彼との約束。共に戦うと誓った、あの温かい記憶。それが、彼女を支える、揺るぎない柱となっていた。彼女は、自らの役割を理解している。自分が、この儀式の、そして世界の運命を左右する『鍵』であることを。だからこそ、恐れてはいけない。彼が、必ず、道を見つけ出してくれる。その絶対的な信頼が、彼女に、孤独な戦いに立ち向かう勇気を与えていた。
(……私は、私の務めを果たします。だから、あなたも、あなたの戦いを)
セレスティアの祈りは、もはや神へ捧げるものではない。遥か遠いようで、しかし、すぐ近くにその存在を感じる、唯一無二のパートナーへと向けられた、静かで、そして力強いエールだった。
◇
「……見つけたぞ」
宿の自室で、俺は、アイとガーディアンから送られてくる膨大なデータを、睨みつけていた。ナノマシン・ドローンが収集した、ソラリス全域の魔素の流動パターン。その中に、俺は、ついに、敵の尻尾を捉えた。
「この、周期的なノイズ……。自然現象じゃないな。極めて人工的で、規則的だ。まるで、誰かが、都市の血管に、異物を注入しているかのようじゃないか?」
《肯定します、マスター。このノイズの発生源は、複数。全て、都市の主要なエネルギーラインが交差する、地下のジャンクションポイントに位置しています。敵は、そこを拠点に、何らかの干渉装置を設置していると推測されます》
『来訪者よ。その干渉波のパターン……。我が記録にある、古代の『情報汚染兵器』のそれに、酷似している。奴らは、『マザー』の聴覚……すなわち、聖歌を受信するシステムを、内側から破壊し、乗っ取るつもりだ』
ガーディアンの言葉が、俺の推測に、最後の確信を与えた。敵の狙いは、儀式の妨害ではない。乗っ取りだ。
「教皇聖下に、この事実を伝えないとな」
俺は、謁見の際に教皇から告げられていた言葉を思い出した。
「もし、真の危機が迫った時は、正規の者を頼るな。図書館の書庫主、マスター・エリアスに、この言葉を伝えよ――『星は沈黙せど、理は語る』と」。教会の正規ルートは、もはや信用できない。俺は、アイの支援で監視の目を掻い潜ると、信頼できる伝令役を確保するため、巡礼者を装って街に出た。
報告を受けた教皇デオフィロス七世は、すぐに行動を起こした。彼は、謁見の間に、原典派、探究派の区別なく、ソラリスに滞在する教会の最高幹部たちを緊急招集した。
「……というわけじゃ。邪神教の残党が、この神聖なる儀式そのものを、内側から汚染しようとしておる」
教皇の重々しい言葉に、その場にいた誰もが息を呑んだ。
「馬鹿な! このソラリスの警備は、聖殿騎士団が完璧に固めているはず! 外部からの侵入など、ありえん!」
原典派の神官が、激昂して反論する。
「敵は、地上からではない。地下からじゃ」
教皇は、俺からもたらされた情報を元に、敵の潜伏場所と、その恐るべき計画の全貌を、幹部たちに明かした。
「我らは、あまりにも、敵を侮っておった。……今こそ、原典派も、探究派もない。教会が一丸となって、この危機に当たる時ぞ。聖殿騎士団の総力を挙げ、地下の浄化にあたってもらう」
教皇の、魂からの言葉に、その場にいた誰もが反論の言葉を失った。これまで派閥の利害で対立していた神官たちも、今はただ、自らの信じる秩序が、その根底から覆されようとしているという、共通の危機感に沈黙している。
やがて、それまで微動だにしなかった聖殿騎士団の長が、一歩前に進み出た。彼は、その場に片膝をつくと、兜を脱ぎ、露わになった厳粛な顔を上げて教皇を真っ直ぐに見据えた。
「――その御言葉、確かに拝聴いたしました。このソラリスの、そして聖女様の神聖を汚す不埒な輩、我ら聖殿騎士団が、この剣に懸けて、必ずや浄化してご覧にいれましょう」
その声は、揺るぎない忠誠と、これから始まる苛烈な戦いへの覚悟に満ちていた。教皇は、静かに頷くと、彼に祝福を与える。会議は、終わった。だが、本当の戦いは、これから始まるのだ。
その日の夜。ソラリスの街は、儀式への期待と、水面下で進行する危機が交錯し、奇妙な静寂と緊張感に包まれていた。
俺は、宿の窓から、大聖堂の輝く尖塔を見上げていた。
明日、儀式は始まる。だが、本当の戦いは、地上の華やかな祭壇ではなく、地下の冷たい闇の中で繰り広げられることになる。
そして明日、セレスティアは星の乙女として祭壇に立つ。皮肉にも、それが奴らを誘き出し、俺たちが動くための唯一の機会となる。……彼女を危険の矢面に立たせる。この胸の痛みも、作戦の一部だと、今は思うしかない。
〈アイ。地下遺跡への最短ルートを、再度割り出せ。敵の配置、罠、全てを予測しろ。……今夜が、勝負だ〉
《了解しました、マスター。最終作戦計画を、立案します》
俺の胸に、恐怖はない。あるのは、守るべき仲間への想いと、未知の脅威に挑む、探究者としての、冷たい興奮だけだった。
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