第172話:響き合う理
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巡行の儀でセレスティアの姿を確認してから、俺の行動はより慎重さを増していた。彼女が『星の乙女』としてこのソラリスにいる。その事実は、俺の目的をより明確にし、同時に、この天空都市に張り巡らされた見えざる網の存在を、より強く意識させた。
彼女と話がしたい。直接、その口から真実を聞き、そして彼女の覚悟を確かめたい。だが、それはあまりにも危険な賭けだった。俺の周囲には、常にラウルスをはじめとする教会の監視の目が光っている。そして、聖女である彼女の周辺の警備は、それ以上に厳重であるに違いなかった。
〈アイ。大聖堂の内部構造と、警備ローテーションのデータを再構築しろ。セレスティアの居住区画と、俺のいる宿舎。その二点を繋ぐ、最も監視の薄いルートを割り出すんだ〉
《了解しました、マスター。都市の構造データ、および監視員の行動パターンを統合し、最適ルートのシミュレーションを開始します。……算出完了。マスター、極めて高いリスクを伴いますが、実行可能なルートが一つだけ存在します》
アイが示したのは、夜の闇に紛れ、大聖堂の裏手にある、普段は使われていない古い聖具倉庫を中継し、そこから彼女の居住区のバルコニーへと至る、一本の細い道筋だった。アイの弾き出した成功確率は、30%にも満たない。あまりにも、危険な賭けだった。
一瞬、躊躇いが心をよぎる。この天空都市で、教会の本拠地でしくじれば、その秘密を探る機会は当分訪れないだろう。だが、脳裏に浮かぶのは、輿の中で俺を見つめていた、あのセレスティアの瞳だ。あの瞳に宿っていた、複雑な感情の意味を、俺は知らなければならない。彼女が一人で何を背負い、何と戦おうとしているのか。それを知らずに、この街で安穏と過ごすことなど、俺には到底できなかった。
「……行くぞ」
俺は、静かに、しかし、固い決意を込めて、そう呟いた。
その夜。ソラリスが、天空の星々と同じ、静かな輝きに包まれる頃、俺は宿の窓から音もなく抜け出した。月明かりだけが頼りの屋根の上を、息を殺して進んでいく。ナノマシンによる身体強化と、アイの的確なナビゲーション、そして、ゴルバスに貰った最高級の隠密装備によって、通常ではありえないレベルの隠密行動を可能にしていた。ローディア騎士団で叩き込まれた身体操作の基礎も役に立っている。
〈二時の方向、鐘楼の影に監視員。呼吸パターンから、現在は休息状態と推測。……クリア〉
〈前方の通路、聖殿騎士が二人、巡回中。あと17秒で角を曲がります。……今です〉
アイの的確な指示が、脳内に直接響く。俺は、闇から闇へと飛び移るように、警備の網をすり抜けていく。やがて、目的であるセレスティアの居住区画、その小さなバルコニーが、眼下に見えた。
俺は、ロープフックを使い、音もなくそのバルコニーへと降り立つ。ガラス戸の向こう、部屋の中には、柔らかな明かりが灯っていた。
俺が、ガラス戸を軽くノックすると、中にいた彼女の肩が、びくりと震えたのが分かった。彼女は、恐る恐る、しかし、俺の存在を確信しているかのような足取りで、こちらへと近づいてくる。
そして、ガラス戸が、静かに開かれた。
そこに立っていたのは、巡行の時の神々しいまでの『星の乙女』ではない。ただ、不安と、再会の喜びに、その大きな碧色の瞳を揺らす、一人の少女、セレスティアだった。
「コウ……」
彼女の唇から、俺の名が、祈りのようにこぼれ落ちる。
「……来て、くださったのですね」
「ああ」
俺は、短く応えると、音もなく部屋の中へと滑り込んだ。
「無事で、よかった」
その言葉を口にした瞬間、張り詰めていた何かが、ふっと途切れた。どちらからともなく、俺たちは互いの名を呼び、その距離を埋めていた。数ヶ月ぶりの再会。俺は彼女の華奢な肩を、セレスティアは俺の背中を、ただ確かめるように、強く、そして静かに抱きしめ合った。彼女の髪から香る、陽だまりのような優しい匂いが、俺の心を安らぎで満たしていく。
言葉はいらない。この温もりだけが、俺たちが共有してきた時間と、互いを想う気持ちの、何より雄弁な証だった。
やがて、どちらからともなく、ゆっくりと体を離す。部屋の中は、彼女らしい、清らかで、そして質素な調度で整えられていた。テーブルの上には、俺が王都で彼女に教えた『理術』の基礎をまとめた羊皮紙が、何枚も広げられている。彼女もまた、ここで戦っていたのだ。
俺たちは、テーブルを挟んで向かい合った。先ほどの温もりの余韻が、二人の間の沈黙を、以前よりもずっと穏やかで、親密なものに変えていた。
先に口を開いたのは、セレスティアだった。
「……驚きました。あなたが、本当にここへ来てくださるなんて。……でも、心のどこかで、信じていました。あなたは、必ず来てくださると」
その声は、安堵に震えていた。
「なぜ、こんな場所に? 王都にいれば、安全だったんじゃないのか?」
俺の問いに、彼女はゆっくりと首を横に振った。そして、その瞳に、聖女としての、強い意志の光を宿した。
「いいえ。安全ではありません。コウ、あなたがいなくなった後、王都は、変わってしまいました。あなたの存在が、あの国の、偽りの平穏を揺り動かしてしまったのです。そして、私も……私も、ただ守られているだけの聖女では、いたくなかった」
彼女は、自らが「星の乙女」に選ばれた経緯を語り始めた。それは、教皇からの勅命という、拒否できない形だったという。だが、彼女は、それをただ受け入れたわけではなかった。
「この儀式の裏に、忘れ去られた、しかしこの世界の根幹に関わる大きな秘密が隠されていることを、私は神託で感じていました。その真実を知るためには、私自身が、この儀式の中心に立つ必要があったのです。それに……」
彼女は、そこで一度言葉を切り、少しだけ頬を染めた。
「ソラリスへ行けば、あなたに会えるかもしれないと、そう、思ったからです」
その、あまりにも純粋で、まっすぐな想いに、俺の胸の奥が、熱くなるのを感じた。
「……すまない。俺が、君を巻き込んでしまった」
「いいえ」
彼女は、きっぱりと否定した。
「私が、選んだ道です。あなたと共に、この世界の真実を知りたいと、そう願ったのですから」
でも…、と彼女は続けた。その表情には、再び不安の影が差す。
「それでも、怖いのです。神託が、日に日に、私の魂に重く響くのです。それは、祝福の調べなどではありませんでした。……視えたのです。この白亜の都の根、その最も深い闇の中で、星の心が再び脈打とうとしているのが。それは、神の温もりも、禍つ者の熱も持たない、硝子のように冷たい理の鼓動。そして、その鼓動を鎖で繋ぎ、自らの意のままに操ろうとする、影たちの囁きが」
彼女は、その存在を知らずとも、その邪悪な意志を神託の力で感じ取っているのだ。
「その『何か』が目覚める時、この儀式は、祝福ではなく、災厄の引き金となる……。私の神託は、そう告げています。私は、この大役を、本当に務め上げることができるのでしょうか。もし、私のせいで、多くの人々を不幸にしてしまったら……」
彼女の声は、その重圧に押しつぶされそうに、か細く震えていた。聖女として、星の乙女として、人々の期待を一身に背負う孤独。その肩にのしかかる責任の重さに、彼女は一人で耐えていたのだ。
俺は、黙って彼女の話を聞いていた。そして、彼女が全てを吐き出し終えた後、静かに、しかし力強く、言った。
「君は、一人じゃない」
俺は、テーブルを回り込み、彼女の震える両肩を、そっと、しかし力強く掴んだ。
「君が背負うものが重すぎるというのなら、その半分を、俺が背負う。君が道に迷うというのなら、俺の『理』が、その道を照らす。君が恐れるというのなら、俺が、君の剣となり、盾となる」
俺の言葉に、セレスティアの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。それは、不安や恐怖の涙ではない。孤独の闇の中に、確かな光を見出した、安堵の涙だった。
「……コウ」
彼女は、俺の名を呼ぶと、そのまま、俺の胸に、その顔をうずめた。俺は、彼女の華奢な身体を、壊れ物を抱きしめるように、そっと、そして強く、抱きしめた。
「大丈夫だ。俺たちなら、必ず乗り越えられる」
俺たちの間に、もう言葉は必要なかった。この再会の対話は、二人の絆を、以前よりも、もっと強く、もっと深く、結びつけた。共に戦う仲間として。そして、互いを支え合う、唯一無二の存在として。
天空都市の静かな夜。二つの孤独な魂は、これから始まる過酷な戦いを前に、互いの温もりの中で、つかの間の安らぎを見出すのだった。
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