幕間8-2:公女の決意と、旅立ちの空
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「えええええええええええええええええええええええっ!?」
私の絶叫は、静寂に包まれた父の執務室の壁に反響し、窓ガラスを微かに震わせた。公爵令嬢にあるまじき、あまりにも素っ頓狂な大声。だが、今の私には、体裁を取り繕う余裕など、どこにもなかった。
「な、何を、仰っているのですか、お父様! 婿ですって!? カガヤ様は、そのような……!」
「ほう」
父、アディル・アディ・ゼラフィムは、慌てふためく私を、まるで面白い芝居でも鑑賞するかのように、楽しげに眺めている。その口元には、私が最も苦手とする、全てを見透かしたかのような、老獪な笑みが浮かんでいた。
「本気、なのだな。カガヤ殿のことが」
父の、静かだが見定めるような問いかけに、私の心臓が、どくん、と大きく跳ねた。彼の言葉は、私の心の最も柔らかな部分を、的確に、そして容赦なく抉り出す。
「そ、それは……」
言葉に詰まる。カガヤ様のことを思うと、胸が温かくなり、同時に、きゅっと締め付けられるように痛む。彼の隣に立っていたい。彼の力になりたい。その想いは、紛れもなく本物だ。だが、それを認めてしまえば、父の思う壺だ。このまま、ゼラフィム家という巨大な権力の奔流に、私の想いも、カガヤ様の未来も、飲み込まれてしまうかもしれない。
「……はい」
私は、意を決して、顔を上げた。頬が熱い。だが、ここで嘘をつくことは、彼に対しても、そして何より、自分自身の心に対しても、不誠実だと思った。
「私は、カガヤ様のことを……その、お慕い……申して…おります」
か細い、蚊の鳴くような声だった。だが、それは、私の、偽らざる本心だった。その言葉を口にした瞬間、私の心の中にあった、もやもやとした霧が、少しだけ晴れたような気がした。
父は、満足げに、深く頷いた。
「よろしい。ならば、話は早い。我がゼラフィム家の総力を挙げて、カガヤ殿を支援する。彼が望むなら、王都での地位も、研究資金も、思いのままだ。その上で、お前を正室として迎えさせ、ゼラフィム家の安泰を……」
「お待ちください!」
私は、父の言葉を、強い意志で遮った。
「お父様。私は、あなたの娘である前に、一人の冒険者、クゼルファです。そして、カガヤ様は、私の命の恩人であり、共に戦うと誓った、唯一無二の相棒です」
私は、一歩も引かなかった。父の、驚いたような視線を、真っ直ぐに受け止める。
「彼の隣に立つというのなら、それは、ゼラフィム家の力によってではありません。この私、クゼルファ自身の力で、勝ち取ってみせます。彼の剣となり、彼の盾となり、彼にふさわしい戦士として、彼の隣に立つ。それが、私の誓いです!」
そして、私は、勢いのままに、心の奥底にあった、もう一つの想いを、口走ってしまっていた。
「そして……カガヤ様の、お気持ちも……。私の、この力で、必ず……!」
そこまで言って、私はハッと我に返った。今、私は、何を。自分の、あまりにも大胆で、恥ずかしい言葉に、顔から火が出るかと思った。もう、父の顔など、まともに見られない。
だが、父は、怒ってはいなかった。それどころか、その口元には、これまで見たこともないような、穏やかで、そしてどこか寂しげな笑みが浮かんでいた。
「……成長したな、クゼルファ」
父は、しみじみと、そう呟いた。
「いつまでも、屋敷を飛び出した、ただのお転婆娘だと思っておったが……。いつの間に、そのような顔をするようになった。……辺境の地が、そうさせたのか。それとも、カガヤ殿が、そうさせたのか」
父は、そこで一度、言葉を切った。
「……おそらくは、後者なのであろうな」
そして、彼は、執務机からゆっくりと立ち上がると、私の前に立った。その瞳は、もはや公爵としてのものではなく、ただ、娘の成長を眩しそうに見つめる、一人の父親の目をしていた。
「――ならば、行け。自らの手で、掴んで参れ。クゼルファ」
父の、力強い言葉が、私の胸を打った。
「其方は、カガヤ殿と共にあり、彼の剣として、その役割を全うしてきなさい。それが、お前の選んだ道であるならば、この父は、もう何も言うまい」
「……お父様……」
「ただし」と、父は付け加えた。
「もし、その道に破れ、傷つき、帰る場所がなくなった時は、いつでも、ここへ戻ってくればいい。ゼラフィム家は、いつだってお前の家だ。……それだけは、忘れるな」
その、不器用だが、温かい言葉に、私の堪えていた涙腺が、ついに決壊した。
「はい……! はいっ……!」
私は、子供のようにしゃくりあげながら、何度も、何度も、頷いた。
「ありがとうございます、お父様! いってまいります!」
次の瞬間、私は、父に背を向け、取る物も取らず、執務室を飛び出していた。礼儀も、作法も、何もかも忘れて。ただ、彼の元へ行きたい。その一心で。
(そうだ。私は、カガヤ様の傍にいて、横に並んで、剣となるのだ!)
廊下を駆け抜け、階段を駆け下りる。
(カガヤ様、待っていてください! 今、クゼルファが、あなたの元へ参ります!)
◇
公爵邸の執務室。嵐のように去っていった娘の後ろ姿を、父は、呆れたような、しかし愛おしそうな目で見送っていた。
「……お館様。よろしかったのですか?」
いつの間にか部屋に戻っていた執事のバルドゥインが、静かに問う。
「ふっ。あのような表情をされたらな。親として、娘の覚悟を、無碍にはできんだろう」
公爵はそう言うと、威厳に満ちた公爵の顔ではなく、ただの父親の顔で、楽しそうに笑った。
「しかし……」と、彼は続ける。
「クゼルファは、カガヤ殿が今、どこにおるか、知っておるのかの?」
◇
その頃、クゼルファは、厩から愛馬を引っ張り出すと、再び嵐のように公爵邸を飛び出していた。領都ラフィムの城門を、凄まじい勢いで駆け抜ける。
「曲者かっ!?……え? クゼルファ様!?」
門番の衛兵が、驚きの声を上げるが、彼女の耳には届かない。
「ごめんなさい! 急いでるの!」
それだけを残し、彼女は街道を、東へと疾走する。
(待っていてください、カガヤ様! クゼルファが、今、あなたの元へ参ります!)
(カガヤ様がいる……カガヤ様の……)
(……あれ?)
その時、彼女の頭の中に、ふと、一つの、極めて重大な疑問が浮かんだ。
(カガヤ様って、今、どこにいるのかしら……?)
確か、最後に聞いたのは……。
(……シエル? だったかしら……?)
猪突猛進とは、まさにこのことであろう。愛と決意を胸に、故郷を飛び出した公女の、前途多難な旅が、今、始まった。果たして、彼女がカガヤに再会できる日は、来るのだろうか。それは、まだ、星々の運行と、一人の公女の幸運だけが知る物語である。
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