幕間7-1:辺境の剣と王都の光
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秋風がヴェリディアの緑を黄金色に染め上げる頃、一人の女剣士が、慣れ親しんだその地を後にした。
クゼルファ・ンゾ・ゼラフィム。
南の公爵家の公女という過去を捨て、冒険者として生きてきた彼女は、今、父からの召喚という、抗いがたい運命に従い、ゼラフィム公爵領へと向かっていた。だが、彼女の心を占めるのは、家門の責務ではない。その道程にある、王都アウレリア。そこにいるはずの、一人の男の面影だった。
(カガヤ様……。今、王都で、どうなさっているのかしら)
彼と共にいた、あの魔の森での数日間。危険と隣り合わせの過酷な日々だったはずが、今思い返すと、不思議と、きらきらとした輝きに満ちている。彼の隣にいるだけで、世界の全てが新鮮で、驚きに満ちて見えた。自分の知らない理で、次々と奇跡を起こしていく彼の背中を、ただ追いかけているだけで、心が満たされた。
(今度こそ、私が、あなたの力になる)
もう、ただ守られるだけの自分ではない。この二ヶ月、ヴェリディアで剣を振り続けた。今の私なら、きっと、彼の隣で、対等に戦えるはずだ。
◇
王都アウレリアの巨大な城門をくぐったクゼルファは、その圧倒的な喧騒と活気に、しばし息を呑んだ。辺境の街ヴェリディアとは比較にならない、人の波、情報の渦。彼女は、まず、カガヤの情報を求めて、王都の冒険者ギルドへと足を運んだ。
だが、ギルドの受付で彼の名を告げても、返ってくるのは怪訝な顔ばかりだった。
「カガヤ? 知らない名だな。最近、そんな腕利きが登録したという話は聞かないが」
落胆し、ギルドを後にした彼女の耳に、酒場で交わされる冒険者たちの噂話が、偶然飛び込んできた。
「そういや、覚えてるか? 数ヶ月前に教会を大騒ぎさせた、あの『異端者』の話をよ」
「ああ、いたな、そんな奴が!聖女様を誑かしたとか言われてた、辺境上がりの魔術師だろ?」
「だが、結局のところ、あの大聖堂の襲撃事件で聖女様と教会を救ったのは、あの男だったって話じゃねえか。一体、どっちが本当だったんだろうな」
異端者。英雄。聖女。
断片的な、しかし無視できないキーワードが、クゼルファの心をざわつかせた。カガヤ様が、なぜ? そして、聖女とは、一体誰のことだ?
彼女は、持ち前の行動力で、街の情報を集め始めた。貴族街のサロン、職人たちの工房、そして、情報の掃き溜めである裏路地の酒場。父の名を出せば、口の重い商人たちも、ある程度の情報は与えてくれた。
そして、彼女が得た情報は、あまりにも矛盾に満ち、彼女を混乱させるには十分だった。
ある者は言う。「あの男は、神をも恐れぬ異端者だ。その邪悪な力で、聖女セレスティア様を籠絡し、自らの意のままに操っている」と。
また、ある者は言う。「いや、カガヤ殿は、教会を邪神教の襲撃から救った英雄だ。第二王子殿下の庇護の下、王家の客人として、古代の研究を進めておられる」と。
そして、最もクゼルファの心を掻き乱したのは、街の乙女たちが頬を染めながら交わす、こんな噂だった。
「カガヤ様と聖女様は、それはもう、仲睦まじいご様子ですって。夜な夜な、お二人で、星空を眺めながら語り合っているとか……」
「聖女……セレスティア……?」
クゼルファの口から、その名が、まるで砂を噛むかのように漏れ出た。鳶色の瞳が、嫉妬と不安に、激しく揺れる。
(聖女って、誰よそれ!?)
そんな折、王都中に、一つの報せが駆け巡った。聖女セレスティアが、教会前の大広場で、民衆のために「癒しの奇跡」を披露する、と。
(……どんな女か、この目で確かめなければ…)
クゼルファは、人混みをかき分け、大広場へと向かった。
広場は、聖女を一目見ようと集まった、数千の民衆で埋め尽くされていた。やがて、大聖堂のバルコニーに、純白の衣をまとった一人の少女が姿を現すと、地鳴りのような歓声が沸き起こった。
その姿を目にした瞬間、クゼルファは、自分が抱いていた嫉妬や不安など、全てを忘れ、ただ、呆然と立ち尽くしていた。
陽光を浴びたプラチナブロンドの髪が、淡く輝いている。宝石のように澄み切った、大きな碧色の瞳。神聖ささえ感じさせるその美貌は、まるで、古の絵画からそのまま抜け出してきたかのようだった。
(綺麗……)
それが、クゼルファが抱いた、偽らざる第一印象だった。
やがて、聖女セレスティアが静かに祈りを捧げ始めると、彼女の体から、温かく、そして清らかな光があふれ出し、広場全体へと降り注いでいく。その光に触れた者たちの傷が癒え、病が和らぎ、奇跡を目の当たりにした民衆は、熱狂の渦に包まれた。
だが、クゼルファは、その光景を、冷静に見つめていた。あの光は、知っている。魔の森で、瀕死だった自分を救ってくれた、あの温かい光と、同じものだ。
(やはり、カガヤ様と、関係が……)
儀式が終わり、聖女が聖堂へと戻っていく。クゼルファは、人混みの中で、ただ、その場に立ち尽くしていた。自分が、あまりにも場違いな存在に思えた。彼の隣に立つべきは、あのような、神に愛された、光のような少女なのではないか。自分のような、泥と血にまみれた戦士ではないのではないか。
自己嫌悪と、諦観。その黒い感情が、彼女の心を支配しかけた、その時だった。
「――お待ちしておりましたわ、クゼルファ・ンゾ・ゼラフィム様」
背後から、凛とした、鈴を転がすような声がした。振り返ると、そこには、侍女だけを伴った、聖女セレスティアが、静かに立っていた。
「私の……名を……?」
「ええ。ゼノン殿下より、あなたが王都に向かっていると伺っておりましたので。それに、私の『目』も、あなたがここに来られることを、おぼろげながらに視ておりましたから」
セレスティアは、穏やかに微笑む。だが、その碧色の瞳の奥には、クゼルファという存在を、値踏みするかのような、鋭い光が宿っていた。
「コウをお探しなのでしょう? 残念ですが、あの方なら、もうここにはいらっしゃいません。遥か東の、自由交易都市シエルへと、旅立たれました」
その言葉に、クゼルファは息を呑んだ。間に、合わなかった……。
だが、それ以上に、彼女の心に引っかかったのは……。
「……コウ?」
クゼルファは訝しげに眉をひそめる。セレスティアは、その反応を見て、楽しそうに、くすりと笑みを漏らした。
「あら。……カガヤ様、と申し上げた方が、あなたにはお分かりになりますかしら?」
「あ!……な、名前呼び……!?」
その事実に、クゼルファの顔が、カッと熱くなるのが分かった。自分ですら「カガヤ様」と呼んでいるのに、この聖女は、いとも容易く……。動揺を隠せないクゼルファを見て、セレスティアは、さらに言葉を続ける。
「あなたも、大変でしたのね。魔の森で、あの方に命を救われたとか。……お察ししますわ。あの方の力は、あまりにも強く、そして、人の心を惹きつけてやまない。抗うことなど、できませんものね」
セレスティアの言葉は、労っているようで、しかし、その裏には、明確な棘があった。「あなたは、ただ助けられただけ。けれど、私は、彼と共に王都で戦った」という、暗黙の牽制。女の戦いが、火花を散らす。
クゼルファは、一瞬怯んだが、すぐに、戦士としての誇りを取り戻した。
「ええ。私は、あの方に命を救われました。だからこそ、誓ったのです。この剣のすべてを懸けて、あの方の盾となると。聖女様、あなたのそのお力は、確かに素晴らしいものなのでしょう。ですが、戦場において、その細腕で、あの方をお守りすることができますか?」
今度は、クゼルファからの反撃だった。二人の間に、静かだが、激しい火花が散る。
だが、その緊張を破ったのは、セレスティアの、ふ、と漏らした、柔らかな笑みだった。
「……ふふ。あなた、面白い方ですのね。ええ、あなたの言う通りです。私には、剣も、盾もありません。ですが、私には、祈りがあります。あの方の心が、道に迷い、闇に囚われそうになった時、その魂を照らし、導くための光が」
彼女の言葉に、クゼルファはハッとした。そうだ。自分たちは、同じ男を、ただ、想っている。その形が、違うだけなのだ。
「私は、剣で、彼の背中を守る」
「私は、光で、彼の進む道を照らす」
二人の瞳が、初めて、真っ直ぐに交わった。そこには、もはや敵意はなく、同じ目的を持つ者同士の、確かな共感と、敬意が宿っていた。
「……クゼルファ様。どうか、お気をつけて」
「あなたも、聖女様」
それが、今後カガヤを共に支えることとなる二人の、短く、しかし、確かな覚悟を確かめ合った、最初の邂逅であった。
翌日、クゼルファは、王都アウレリアを後にした。目指すは、父が待つ、南の領都ラフィム。
彼女の心には、もはや迷いはない。カガヤは、シエルにいる。ならば、自分は、ゼラフィム家の力を使い、南から、彼を支えるための道を切り拓く。いつか、彼が大陸の未来を語る時、その隣に、対等な力として立つために。
戦士の瞳をした公女は、自らの戦場へと、力強く、その一歩を踏み出した。
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