第142話:沈黙の疫病(前編)
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商業ギルドとの激しい経済戦争が、俺たち「交易商会ミライ」の完全勝利という形で終結してから、シエルの街には、嘘のような平穏な日々が流れていた。旧き権力者たちの敗北は、市場に健全な競争と、新たな活気をもたらした。俺たちの工房は、その中心で、力強い成長を続けている。
「カガヤ!今月の『ミーソ』の売上、先月の倍だよ!この調子なら、年内にはスラムの全員に、新しい服を買ってやれるかもしれない!」
執務室の扉を勢いよく開け、リコが帳簿を片手に飛び込んでくる。その勝ち気な瞳は、商売の面白さと、仲間たちの生活を豊かにできるという喜びに、きらきらと輝いていた。
「それは、君の手腕のおかげだろう、リコ部長」
「へへん、まあね!」
俺が軽口で返すと、彼女は得意げに胸を張った。その隣では、レオが「また調子に乗って……」と呆れ顔で頭を掻いている。ギド率いる製造部門は、日に日にその生産効率を上げ、セツナは、その全てを完璧な経営戦略へと昇華させていく。
工房に響く仲間たちの笑い声、活気に満ちた槌音。それは、俺がこの世界で手に入れた、かけがえのない日常だった。この温かい「家」を、このシエルという街を、俺は心の底から守りたいと願っていた。
だが、豊かな土壌が、時に最も悪質な毒草を育むように。俺たちが築き上げたこの温かな日常は、全く異質な、そして見えざる脅威を呼び覚ますための、格好の温床となりつつあった。
異変に、最初に気づいたのはリコだった。
「なあ、カガヤ。最近、街の様子が、なんだか変なんだ」
ある日の夕方、彼女は珍しく、深刻な顔で俺に報告をもたらした。
「どうした?」
「活気が、ないんだよ。特に、港湾地区の連中。いつもなら、昼間っから酒飲んでバカ騒ぎしてるような連中が、みんな、昼間から、家の隅でぼーっとしてる。話しかけても、なんだか上の空で……」
それは、些細な変化だった。だが、シエルの裏も表も知り尽くした彼女の情報網が捉えた、見過ごすことのできない違和感。その報告を皮切りに、同様の異変が、街の各所から俺たちの元へと届けられ始めた。
職人街の鍛冶屋が、理由もなく炉の火を落とすようになった。市場の商人たちが、客引きの声を張り上げる気力さえ失い、ただ、ぼんやりと椅子に座っている。これまで喧騒に満ちていたシエルの心臓の鼓動が、まるで、ゆっくりと、その動きを止めようとしているかのようだった。
そして、その奇妙な「病」は、ついに、俺たちの工房にも、その影を落とし始めた。
「……なんだか、体がだるいんだ。別に、熱があるわけでもないんだが……」
忘れられた民の、屈強な若者の一人が、力なくそう訴えた。やがて、同じ症状を訴える者が、一人、また一人と増えていく。彼らは、傷もなければ、病の兆候もない。だが、その瞳からは、かつての誇り高い輝きが失われ、ただ、ぼんやりとした、深い倦怠感だけが浮かんでいた。
「カガヤ様。これは……」
執務室で、セツナが厳しい表情で呟いた。彼女の目の前には、症状を訴える者たちのリストが並べられている。
「ただの疲労では、ありませんね。何かが、彼らの生命力そのものを、内側から吸い上げているようです」
俺は、険しい顔で腕を組んだ。脳裏を、かつてシエルを襲った、あの「渇き」の悪夢がよぎる。
「……またか?」
俺の呟きに、セツナは、俺の思考を読み取ったかのように、静かに、しかし確信を込めて言った。
「――『炎の紋章』、ですか」
彼女の瞳には、かつての「影」としての、冷徹な光が宿っていた。商業ギルドとの経済戦争に気を取られている間に、あの狂信者たちが、水面下で、新たな攻撃を仕掛けてきていたのだ。物理的な破壊ではない。経済的な妨害でもない。人の心、その気力と思考力を、根こそぎ奪い去る、見えざる「精神攻撃」。
〈アイ。症状が出ている者たちの、生体データをスキャン。魔素の流れに異常はないか?〉
《マスター。対象者たちのバイタルサインに、異常は見られません。ですが、脳波を詳細に分析した結果、思考や意欲を司る前頭前野の活動レベルが、著しく低下しています。これは、外部からの何らかの干渉によるものと推測されますが……その干渉波は、我々の既知のいかなる物理法則にも合致しません。観測できず、特定不能です》
俺の五感から得られる限定的な情報と、ナノマシンが検知する微弱な脳波の乱れ。アイにとって、その攻撃の正体を特定するには、あまりにも情報が少なすぎた。それは、俺たちの科学の常識を超えた、未知の脅威だった。ポーションも、治癒魔法も、そして俺のナノマシンによる対症療法さえも、この「沈黙の疫病」の前では、全くの無力だった。
街から、活気が消えていく。経済は停滞し、人々の瞳から光が失われていく。シエルは、ゆっくりと、しかし確実に、死の沈黙へと向かっていた。
俺たちが、打つ手を見出せずに、ただ時間だけが過ぎていく。そんな焦燥感に満ちた、ある夜のことだった。
執務室で、俺がアイと共に、この不可解な現象の解析を続けていた、まさにその時。
突如、俺の脳内に、直接、一つの「声」が響き渡った。
それは、アイの声ではない。もっと、古く、そして、圧倒的な知性を感じさせる、無機質な、しかしどこか懐かしい響き。
『――来訪者カガヤ。聞こえるか』
「……ガーディアン!?」
俺は、思わず声を上げた。地下聖域の、あの古代AI。彼が、なぜ、今?
『緊急事態だ。地上全域で、エーテロン・スウォームの、深刻な変調を感知した。これは、自然現象ではない。古代の、ある呪詛兵器のパターンと一致する』
彼の言葉は、俺の背筋を凍らせるのに、十分だった。
『汝らが「沈黙の疫病」と呼ぶそれは、病ではない。広域精神汚染だ』
ガーディアンは、淡々と、しかし、恐るべき事実を告げた。
『来訪者よ。このままでは、シエルの民は、いずれ、思考することをやめ、ただ呼吸するだけの、生ける屍となるだろう。そして、そのノイズは、いずれ大陸全土へと広がり、この星の全ての知性体を、沈黙させる』
ガーディアンの警告は、かつてセレスティアの神託が示した、あの悪夢の再来を予感させるには十分だった。
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