第140話:ガラクタの価値
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「交易商会ミライ」の執務室は、創業以来、初めての重苦しい沈黙に包まれていた。窓の外では、シエルの街がいつも通りの喧騒に満ちている。だが、俺たちの工房の中だけは、まるで嵐の前の静けさのように、張り詰めた空気が支配していた。
「……カガヤ様。今月分の『黒森の獣油』、及び『岩塩』の在庫が、完全に底をつきました」
最高執行責任者であるセツナが、冷徹な、しかしその奥に悔しさを滲ませた声で報告する。彼女の前に広げられた帳簿の数字は、俺たちの生命線が、旧き権力者たちの手によって、意図的に、そして確実に断ち切られようとしている現実を、無慈悲に突きつけていた。
「商業ギルドの買い占めは、今も続いています。市場価格は、もはや通常の三倍にまで高騰。このままでは、石鹸も、調味料も、全ての主力商品の製造が停止します」
「どうすんだよ、カガヤ……」
隣に立つリコが、不安そうな顔で俺を見上げる。彼女が率いる孤児たちの販売網も、売るべき商品がなければ、機能しない。やっと手に入れた、日々の糧と、ささやかな誇り。それが、再び奪われようとしていた。
ギドもまた、工房の隅で、屈強な同胞たちを前に、厳しい表情で腕を組んでいる。彼らの仕事も、止まってしまっている。
兵糧攻め。商人にとって、これほど古典的で、そして効果的な攻撃はない。商業ギルドの重鎮たちは、鉄血傭兵団という俺たちの「盾」を恐れ、直接的な攻撃は避けた。その代わりに、彼らは市場経済という、自らが支配する土俵の上で、俺たちの息の根を、じわじわと止めに来たのだ。
(……やられたな。見事なまでに)
俺は、静かに目を閉じた。怒りはない。むしろ、敵ながら天晴れ、とさえ思った。彼らは、このシエルという市場のルールを、誰よりも知り尽くしている。そのルールの前では、俺の持つ「理術」も、鉄血傭兵団の武力も、無力に等しい。
だが、それは、あくまで「彼らのルール」の上で戦うならば、の話だ。
「……面白い」
俺は、ゆっくりと目を開けると、不敵な笑みを浮かべた。その言葉に、絶望的な空気に満ちていた執務室の全員が、ハッと顔を上げる。
「奴らが市場のルールで戦いを挑んでくるなら、結構だ。……俺たちは、そのルールの外で、奴らの知らない新しいゲームを始めてやろうじゃないか」
「ですが、カガヤ様」
セツナが、いぶかしげに問いかける。
「原材料がなければ、我々には戦う術が……」
「誰が、同じ土俵で戦うと言った?」
俺は、立ち上がると、シエルの広域地図をテーブルの上に広げた。
「奴らが『獣油』と『岩塩』を買い占めるなら、結構。くれてやればいい。俺たちは、奴らが価値を見出していない、全く新しい『資源』で、新しい『商品』を創り出すまでだ」
俺の言葉に、その場にいた全員が、息を呑んだ。
「ギド!」
「はっ!」
「あんたたち『忘れられた民』が、森で狩りをする時、普通なら捨ててしまう魔獣の部位は何かあるか?例えば、特定の臭いが強すぎるとか、硬すぎて食えないとか、そういう理由で」
俺の問いに、ギドは少し考え込んだ後、答えた。
「……そうですな。例えば、平原に生息する『砕巌獣』という魔獣がおります。その皮下脂肪は、燃やすとひどい悪臭を放つため、誰も見向きもしません。ですが、その脂の量は、黒森の獣の比ではありませぬ」
「それだ!」
俺は、地図上の一点を指さした。
「すぐに、その砕巌獣の脂肪を集めてきてくれ。悪臭は、問題ない。俺の『理術』で、匂いの元となる分子構造だけを分解し、無臭の、極めて良質な『油』へと精製してみせる」
次に、俺はセツナに向き直った。
「セツナ。新しい調味料を開発する。発酵の原理は同じだ。だが、材料を変える。岩塩の代わりに、海の近くで採れるという『海藻』を使う。それに含まれる豊富なミネラルとグルタミン酸は、岩塩とは全く違う、深い『うま味』を生み出すはずだ」
俺の脳内では、アイが、地球の生化学と、この世界の生態系のデータを、猛烈な勢いで組み合わせ、新たなレシピを構築していく。それは、この世界の誰もが思いつかない、しかし、科学的には完全に理に適った、逆転の一手だった。
「リコ、レオ!お前たちには、新しい『物語』を、この街に広めてもらう!」
「物語?」
「ああ。商業ギルドの横暴によって、俺たちが窮地に立たされていること。だが、それでも、俺たちは諦めないこと。そして、シエルの民衆のために、この街の、誰もが見向きもしなかった『ガラクタ』から、新しい『宝物』を生み出そうとしていること。その物語を、お前たちの言葉で、この街の隅々にまで届けるんだ」
それは、単なる宣伝ではなかった。民衆の感情に直接訴えかけ、彼らを、この経済戦争の「当事者」へと引き込むための、高度なマーケティング戦略だった。
俺の指示に、それまで工房を覆っていた絶望の空気は、一掃されていた。ギドの目には狩人としての光が戻り、リコとレオは「面白くなってきた!」と不敵に笑い、そしてセツナは、俺の無謀とも思える計画を、絶対的な信頼を込めた瞳で見つめ、その実現可能性を、冷静に、そして的確に分析し始めていた。
◇
数日後。「交易商会ミライ」は、二つの新商品を、市場に投入した。
一つは、『カガヤ印の清香石鹸』。砕巌獣の脂から精製された、真っ白で、泡立ち豊かな石鹸。以前のものより洗浄力は高く、さらに、俺が独自に配合した森の香草のエキスにより、心を落ち着かせる清涼な香りを放っていた。
そしてもう一つは、『深海の雫』と名付けられた、琥珀色の液体調味料。海藻と、新たな発酵菌が生み出すその味は、「ミーソ」や「ショーユ」とは全く異なる、磯の香りと、複雑で奥深い「うま味」を持っていた。
リコたちは、これらの新商品を、一つの物語と共に売り歩いた。
「さあ、見てってよ!これは、俺たちの、ギルドへの反撃の狼煙だ!」
「金持ちどもが、俺たちの暮らしを潰そうとしてる!でも、カガヤは諦めなかった!こんな、誰も見向きもしなかったガラクタから、新しい宝物を生み出したんだ!」
彼らの言葉は、芝居がかっていて、少しだけ大げさだったかもしれない。だが、その瞳には、自分たちの手で未来を切り拓こうとする、真実の光が宿っていた。
その物語は、民衆の心を、強く、そして確かに掴んだ。
「ギルドの連中、なんて卑劣な真似を……」
「それに引き換え、ミライの商会長は、俺たちのことを本当に考えてくれている」
「そうだ!俺たちが買うべきは、ギルドの押し付ける高い品物じゃない!俺たちのための、俺たちの工房が作った、『本物』の商品だ!」
民衆の支持という、最も強力な追い風。それは、商業ギルドの重鎮たちが築き上げた、見えざる市場の壁を、いとも容易く吹き飛ばしていった。新商品は飛ぶように売れ、「ミライ」の売上は、以前にも増して、急激な上昇カーブを描き始めた。
商業ギルド本部。会長ロスタムの執務室に、ギムレットたち三人の怒号が響き渡る。
「馬鹿な……!なぜだ!なぜ、我らが買い占めた原材料が、何の意味もなさなくなる!」
「それどころか、奴らの評判は、以前よりも高まっているではないか!」
彼らは、自分たちの足元が、音を立てて崩れていくのを、ただ、呆然と見つめることしかできなかった。彼らが信じてきた「金の力」が、カガヤという男の持つ、「知恵」と「仲間との絆」という、全く異質の力の前に、完膚なきまでに打ち破られた瞬間だった。
俺は、工房の窓から、活気を取り戻した仲間たちの姿を見下ろしながら、静かに、次の手を思考していた。
これで、第一ラウンドは終わりだ。だが、奴らがこのまま黙って引き下がるとは思えない。
しかし、旧き権力が仕掛けた、見えざる経済戦争。その戦いの主導権は、今、完全に、俺の手に渡った。
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