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第139話:旧き商人の流儀

お読みいただき、ありがとうございます。

朝・昼・夕の1日3回の更新を目指しています。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

「交易商会ミライ」がシエルの市場に投じた「石鹸」と「発酵調味料」という二つの小石は、混沌の都市に、予想を遥かに超える大きな波紋を描き出していた。


衛生という概念は、まずスラム街から、そして職人街、港湾地区へと燎原の火のごとく広がり、それに伴い、これまで原因不明の病や感染症に苦しんでいた人々の生活は劇的に改善された。カガヤ印の石鹸は、もはや単なる商品ではなく、民衆にとっての「お守り」のような存在となりつつあった。


そして、「ミーソ」と「ショーユ」がもたらした「うま味」という味覚の革命は、シエルの食文化を根底から揺るがした。鉄血傭兵団との提携により、まず傭兵たちの間で絶大な人気を博したその味は、やがて街の酒場や食堂へと広がり、「ミライの調味料を使っているか」が、店の格を示す新たな指標にさえなり始めていた。


「交易商会ミライ」の名声は日に日に高まり、工房には、取引を求める商人や、技術を学びたいという職人、そして、仕事を求めて集まる若者たちで、連日、門前市をなしていた。


まさに、快進撃。その成功の中心で、俺、カガヤ・コウは、商会長として、目の前に積まれた羊皮紙の山と格闘する、穏やかな日々を送っていた。


「カガヤ様、こちらが先月の売上報告と、来月の生産計画の試算です」


執務室の扉がノックされ、セツナが分厚い帳簿を手に、静かに入室してきた。最高執行責任者としての彼女の仕事ぶりは、完璧の一言に尽きる。その冷静な分析力と、影として培われた情報収集能力は、この商会の、何物にも代えがたい羅針盤となっていた。


「ありがとう、セツナ。……順調すぎるほどだな」


俺は、帳簿に記された数字に目を通しながら、満足げに頷いた。鉄血傭兵団という強力な「盾」を得て、さらに五大ギルドとの協力関係を築いた今、俺たちの事業を公然と妨害する者は、このシエルにはもはや存在しない。そう、思っていた。



その頃、シエルの中心部にそびえ立つ、商業ギルドの本部。その最上階にある豪奢な一室では、重苦しい空気が支配していた。


「――けしからん。どこの馬の骨とも知れぬ異邦人が、我らが築き上げてきたシエルの市場を、好き勝手に荒らしおって」


忌々しげにそう吐き捨てたのは、この都市の穀物市場を牛耳る『ガルガン商会』の会長、ベオルだ。熊のようにがっしりとした体躯と、全てを力でねじ伏せてきたという自信に満ちたその顔は、怒りに赤黒く染まっている。


「石鹸だか何だか知らんが、あのような安物で民衆の歓心を買い、我らの薬草やポーションの売上を侵食する。保存食に、奇妙な調味料……。鉄血傭兵団に取り入り、我らの縄張りを脅かす。まさに、秩序を乱す害虫そのもの」


それに同調したのは、織物市場の最大手、『アラクネ商会』の女会長、妖艶な雰囲気をまとったエレオノーラだった。彼女は、優雅にワイングラスを傾けながら、その瞳に冷たい光を宿す。


「おまけに、スラムの孤児どもを使い、我らの流通網を通さぬ、独自の販売網を築いているとか。まるで、ドブネズミのようなやり方ですわね。我らが美しく、統制された市場が、穢されていくようですわ」


そして、最後に、沈黙を守っていた男が、静かに口を開いた。シエルの鉱物、そして魔道具の市場を支配する『黒鉄商会』の会長にして、この三人の中心格である、老獪な男、ギムレットだ。


「問題は、奴の背後に、鉄血傭兵団と、そして、一部ではあるが、五大ギルドの他の連中までが付き始めていることだ。奴がシエルを救ったという『奇跡』、そして『交易商会ミライ』がもたらす『利益』。その二つが、奴を厄介な存在に押し上げている」


彼らは、商業ギルドの中でも、特に大きな力を持つ三大商会の長。ギルドの重鎮として、長年このシエルの市場を支配してきた、旧き権力の化身たちだった。彼らにとって、「交易商会ミライ」の存在は、自らの既得権益を脅かす、排除すべき腫瘍に他ならなかった。


「ロスタムギルド長は、静観を決め込んでいるご様子。腑抜けめ」

「あの男は、臆病なだけですわ。鉄血傭兵団との衝突を恐れて」

「ならば、我らでやるまで。奴に、このシエルの本当の『流儀』というものを、教えてやらねばなるまい」


ギムレットのその一言で、部屋の空気は、明確な悪意の色を帯びた。


その数日後。商業ギルド長ロスタムの執務室に、その三人が姿を現した。


「……で、お前たちの言う『陳情』とやらは、その異邦人の商会を、ギルドの力で潰せ、という、ただの我儘にしか聞こえんのだがな」


ロスタムは、心底うんざりした顔で、彼らを見やった。


「ギルド長!これは、シエルの市場の秩序を守るための、正当な要求です!」

「そうですわ。あの者のやり方は、あまりにも野蛮。我らが築いた伝統と信用を、根底から覆しかねません」


「黙れ」

ロスタムの、静かだが、有無を言わせぬ一言に、三人は言葉を詰まらせた。


「お前たちが、己の利益しか見ておらぬことは、百も承知だ。……だが、忠告だけはしておいてやる。あの『交易商会ミライ』には、手を出すな。あのカガヤという男は、お前たちが思っているような、ただの成り上がりの商人ではない。……あれは、化け物だ」


彼は、あの地下遺跡での災厄の報告を受けた時のことを、思い出していた。街を救ったという、その常軌を逸した力。そして、ギルドの長たちを前にしても、一切動じることのなかった、あの不敵な態度。あれは、ただの商人が持つ器ではない。


「忠告はしたぞ。これ以上、事を荒立てるというのなら、好きにするがいい。だが、その結果、お前たちの首が飛んでも、ギルドは一切関知せん。……分かったら、さっさと下がれ」


ロスタムの言葉は、最大限の警告だった。だが、自らの力と、これまでの成功に絶対の自信を持つ三人の重鎮たちには、その言葉は、老人の臆病な戯言にしか聞こえなかった。


彼らは、不満げな表情で執務室を後にすると、顔を見合わせ、鼻で笑った。


「……どうやら、我らのギルド長も、耄碌なされたようだ」

「ええ。時代の流れが、お見えになっていないのでしょう」

「ならば、我らで、このシエルの市場に、真の秩序を取り戻すまでのこと」


彼らの目は、己の利益という名の、濁った欲望に満ちていた。旧き権力者たちは、自らが引き起こそうとしている経済戦争の先に、どんな結末が待っているのか、まだ知る由もなかった。



「……やはり、来ましたか」


「交易商会ミライ」の執務室。セツナは、帳簿に記された一つの数字を指し示しながら、厳しい表情で俺に報告した。


「カガヤ様。この一週間で、主力商品である石鹸の原材料、『黒森の獣油』の市場価格が、一と半割も上昇しています。同時に、調味料に不可欠な『岩塩』も、同様の動きを見せています」


彼女が示したグラフは、明らかに異常なカーブを描いていた。天候不順や、不作といった、市場を変動させる外的要因は、何一つ報告されていない。


「あまりにも、不自然です。まるで、誰かが、市場の裏側で、意図的に価格を吊り上げているかのようです」


「誰か、か。まぁ、どこのどいつがやっているか、大方見当はついている」


俺は、窓の外に広がる、商業ギルドの巨大な建物を、静かに見据えた。


「リコ!」


俺の声に、階下から、元気の良い返事が返ってくる。すぐに、リコが執務室へと駆け込んできた。


「どうしたんだい、カガヤ!何か面白いことでもあったのかい?」


「ああ。面白いことになりそうだ。お前たちの情報網を使って、この一週間、『黒森の獣油』と『岩塩』を、大量に買い付けている商会の名を、全て洗い出してくれ。金の流れを追えば、必ず、大元の黒幕にたどり着くはずだ」


「任せとけ!」


リコは、ニヤリと笑うと、風のように部屋を飛び出していった。彼女にとって、こういう裏仕事は、得意中の得意分野なのだ。


数時間後。リコがもたらした情報は、俺とセツナの予測を、完璧に裏付けるものだった。


「……『ガルガン商会』、『アラクネ商会』、そして、『黒鉄商会』。商業ギルドの、最大手、ビッグ3だ。こいつらが、裏で手を組み、俺たちの商会の、兵糧攻めを画策している」


セツナが、冷徹な声で分析結果を告げる。工房内に、静かな、しかし確かな緊張が走った。


「面白い。宣戦布告、というわけか」


俺は、不敵に笑った。


「受けて立とうじゃないか。商人としての、本当の戦争を。……セツナ、リコ。すぐに、カウンタープランを立案するぞ」


旧き権力が仕掛けた、見えざる経済戦争。その戦端は、今、確かに開かれた。俺は、この新たな戦場で、商人カガヤの、本当の真価を、このシエルの全てに見せつけることを、静かに、しかし強く、心に誓うのだった。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!

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