第138話:発酵という名の同盟
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「カガヤ印の石鹸」が巻き起こした衛生革命は、「交易商会ミライ」の名をシエルの隅々にまで浸透させた。工房は連日フル稼働し、セツナが管理する帳簿の数字は、右肩上がりに確かな成長曲線を描いている。商会長としての俺の仕事は、この勢いを維持し、さらに加速させるための次なる一手、すなわち「新商品開発」にあった。
きっかけは、鉄血傭兵団の補給担当官ダガンが、工房を訪れた際の何気ないぼやきだった。「カガヤ殿のところのアクア・ヴィータやヴィータ・バームは、確かに画期的だ。おかげで、遠征先での負傷者の生存率は格段に上がった。……だがな、問題はそこじゃないんだ」
彼は、分厚い手で自らの顎をさすりながら、深いため息をついた。
「兵士たちの士気を、根っこから蝕むものが別にある。……それは、『飯』だ」
ダガンによれば、傭兵団の遠征時の食事は、ひどいものだったらしい。主なメニューは、カチカチの獣臭い干し肉と、石のように硬い黒パン。そして、ぬるい水。栄養価は低く、何より、毎日同じ味気ない食事を続けることは、屈強な傭兵たちの精神を、じわじわと蝕んでいく。
「戦場で一番堪えるのは、敵の刃よりも、不味い飯かもしれねえな」
その言葉に、俺は商機と、そして仲間への新たな貢献の道筋を、確かに見出していた。
「セツナ。新しい事業計画を立てる。テーマは『食の革命』だ」
執務室に戻った俺は、すぐさまセツナに告げた。
「食、ですか?」
「ああ。鉄血傭兵団は、俺たちにとって最高のビジネスパートナーであり、この工房を守る盾でもある。彼らが抱える問題を解決することは、俺たちの未来への、最高の投資になる」
俺の頭の中は、すでに商人としての思考に切り替わっていた。ターゲットは、傭兵団。ニーズは、携帯性が高く、栄養価に優れ、そして何よりも「美味い飯」。俺の故郷、地球連邦の宇宙軍が採用していた戦闘糧食の知識が、この異世界で、最高の武器となる。
〈アイ。この世界の主要な穀物、豆類、そして保存性の高い野菜の栄養データをリストアップしろ。目標は、一食で成人男性が必要とする、最適なPFCバランスとビタミン、ミネラルを摂取できる、携帯保存食の開発だ〉
《了解しました、マスター。データベースを照合し、最適な食材の組み合わせをシミュレーションします》
俺は、研究室に籠もった。ギドに集めさせたのは、この世界で「黒豆」と呼ばれる、栄養価の高い豆と、硬いが長期保存が可能な「岩麦」。それらを粉末にし、乾燥させた魔獣の肉、そして、滋養強壮効果のある薬草を、アイが算出した完璧な比率で配合していく。
出来上がったのは、圧縮されたブロック状の、見た目は素朴なビスケットのようなものだった。
「これだけじゃ、ただの栄養食だ。兵士の心を掴むには、もう一手間、必要だな」
俺が次に求めたのは、「味の革命」だった。
この世界の料理の味付けは、単純だ。塩、胡椒、そして、いくつかの香草。それだけ。味に深み、すなわち「うま味」という概念が存在しない。ならば、それを俺が創りだせばいい。
「発酵。……これほど、低コストで、劇的に食文化を豊かにする技術はない」
俺は、地球の、そしてその中でも特に日本の、伝統的な食文化の叡智に、勝機を見出していた。
研究室の一角に、温度と湿度が完璧に管理された、小さな培養室が作られた。俺は、アイの分析を元に、この世界の穀物や大気に存在する無害な微生物の中から、特定の菌を選び出し、培養を開始する。――地球で言うところの、「麹菌」に似た性質を持つ、新たな菌を。
数週間後。培養室の木箱の中には、白い菌糸に覆われた、美しい「米麹」ならぬ「岩麦麹」が、芳醇な香りを放っていた。これと、蒸した黒豆、そして塩を混ぜ合わせ、巨大な樽に仕込む。
「カガヤ様、これは……?」
手伝いをしていたセツナが、樽から立ち上る、これまで嗅いだことのない複雑で芳醇な香りに、不思議そうな顔で中を覗き込んだ。そこには、黒糖を煮詰めたような、黒く艶やかなペースト状のものが、静かに息づいている。
「俺の故郷の、伝統的な調味料さ。時間をかけて、微生物の力で豆を発酵させて作るんだ。名を『味噌』という。完成までには、ここからさらに数ヶ月の熟成が必要だがな」
「ミーソ……?」
セツナは、聞き慣れないその響きを、まるで新しい呪文でも覚えるかのように、小さく唇の上で繰り返した。彼女の涼やかな瞳が、不思議そうに小首をかしげる。
同時に、別の樽では、岩麦麹と黒豆、そして塩水を使い、もう一つの調味料の仕込みも進めていた。黒く、芳しい香りを放つ液体調味料。『醤油』だ。
それは、魔法でも、錬金術でもない。微生物の働きという、生命の神秘を利用した、悠久の時が育んだ、科学の芸術だった。
◇
そして、最初の試作品が完成したのは、それからさらに一ヶ月後のことだった。
俺は、セツナと共に、鉄血傭兵団の砦へと向かった。ダガンに案内され、通されたのは、兵士たちが訓練の合間に休息をとる、だだっ広い食堂だった。
「これが、俺からの新しい提案です」
俺は、無骨な木のテーブルの上に、二つのものを並べた。一つは、真空パックされたブロック状の保存食。そしてもう一つは、小さな壺に入った、黒いペースト状の『味噌』と、液体状の『醤油』。
食堂にいた傭兵たちが、物珍しそうに、遠巻きにこちらを見ている。
「なんだ、そりゃ。またカガヤ殿のところの、新しいお呪いか?」
一人が、からかうように言うと、周りからどっと笑いが起きた。
俺は、何も言わずに、ギドに手伝わせて作った携帯コンロに火をつけ、鍋に水を張った。そこに、『味噌』をスプーン一杯、溶かし入れる。ふわり、と、これまでに誰も嗅いだことのない、香ばしく、そして食欲をそそる香りが、食堂に満ちていった。
傭兵たちの笑い声が、ぴたりと止んだ。彼らは、その未知の、しかし抗いがたいほどに魅力的な香りに、鼻をひくつかせている。俺は、そこに、保存食を砕いて入れ、乾燥野菜と共に軽く煮込んだ。
「さあ、まずは、騙されたと思って、一口どうぞ」
俺が差し出したスープの椀を、一番近くにいた、体格の良い傭兵が、疑い深そうに受け取った。彼は、恐る恐る、その茶色い液体を一口、すする。
次の瞬間。彼の、歴戦の傭兵としてのポーカーフェイスが、驚愕に見開かれた。
「な……っ、なんだ、これは……!?美味い……!美味すぎるぞ……!」
その叫び声が、引き金だった。我も我もと、傭兵たちが殺到し、あっという間に鍋は空になった。
「信じられねえ……。体が、芯から温まるようだ……」
「干し肉と黒パンしか知らなかった俺の人生は、何だったんだ……」
彼らは、初めて知る「うま味」の衝撃に、言葉を失っていた。
次に、俺は鉄板の上で、薄切りの魔獣肉を焼いた。そして、その表面に、『醤油』を数滴、垂らす。ジュッ、という音と共に、醤油の焦げる、暴力的なまでに食欲を刺激する香りが、再び食堂を満たした。
その肉切れを口にした傭兵たちは、今度こそ、天を仰いだ。
「神よ……!これが、天国の味か……!」
その日の夕方。団長であるジンの執務室で、俺は彼と、たった二人で向き合っていた。彼の前には、空になったスープの椀と、綺麗に平らげられた肉の皿が置かれている。
「カガヤ殿」
ジンは、重々しく、口を開いた。
「……素晴らしい。実に見事な『兵站革命』だ。この『味噌』とやらと『醤油』、そして、あの保存食。これを、我が鉄血傭兵団と、長期的な供給契約を結んでもらいたい」
彼の言葉は、懇願ではなかった。このシエル最強の武力集団の長が、一介の商人に、対等なビジネスパートナーとしての「取引」を申し込んできたのだ。
「兵士たちの士気、そして体力。それが、我らの力の根源だ。君の商品は、それを、根底から向上させる。金なら、いくらでも払おう。その上で、だ」
ジンは、机の上に身を乗り出し、真剣な目で俺を見据えた。
「貴殿の『交易商会ミライ』を、我らが団の『御用達商会』として、公式に指定させてもらえんか」
「御用達商会……ですか」
俺は、その言葉の持つ本当の意味を、瞬時に理解した。それは、「独占契約」などという、狭い枠組みの話ではない。シエル最強の武力集団が、俺たちの商会に「お墨付き」を与えるということ。それは、他のギルドや組織に対する、何よりも雄弁な牽制であり、最高の「信用」の証となる。
「そうだ。我らは、君たちから最高の食料を、優先的かつ安定的に供給してもらう。その代わり、我らは、君たちの商売における、あらゆる物理的な脅威を取り除く『盾』となる。これは、互いの未来を賭けた、対等な同盟の提案だ」
俺は、彼の真摯な目を見つめ返すと、商人としての、最高の笑みを浮かべた。
「これ以上ない、魅力的なご提案です。……では、商談を始めましょうか、ジン団 Maß。シエルの食文化、いや、この大陸の未来を変える、新しい商談を」
鉄と血で結ばれた傭兵団との絆は、今、発酵という名の、温かく、そして滋味深い同盟関係へと、その姿を変えようとしていた。それは、やがてシエル全土に「食の革命」の狼煙を上げることになる、大きな一歩だった。
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