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第137話:見えざる魔法

お読みいただき、ありがとうございます。

朝・昼・夕の1日3回の更新を目指しています。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

シエルの朝は、混沌の匂いから始まる。入り組んだ路地から立ち上る得体の知れない煙、市場に並び始める香辛料と腐りかけの果実が混じった香り、そして、夜の間に溜まった汚水が淀む音。だが、「交易商会ミライ」が根を下ろしたスラム街の一角だけは、その法則から外れていた。


「レオ!あんた、また帳簿の数字が合わないじゃない!銅貨一枚のズレが、商会の信用をどれだけ損なうか分かってるの!?」


販売・広報部門の責任者であるリコが、腕を組み、鋭い視線で帳簿を睨みつけながら叫ぶ。すっかりスラムの子供たちのリーダーとしての風格が板についた彼女の剣幕に、年長の少年レオはたじろいだ。


「しょうがねえだろ!南地区の連中は、いまだに指の数もまともに数えられねえんだから!」


「言い訳は聞きたくない!次やったら、あんたの今週の給金から差し引くからね!」


「なんだとぉ!」


子供らしい、しかしプロ意識に満ちた口論を微笑ましく聞きながら、俺は工房の奥にある研究室で、新たな「商品」の開発に没頭していた。


商会長。それが、今の俺の公式な肩書だ。シエルの危機を救い、五大ギルドとの和解を果たした俺たちの商会は、鉄血傭兵団という強力な盾もあって、今やこの混沌の都市で最も勢いのある組織へと成長していた。だが、その成功に安住する気は毛頭なかった。


(この世界の『常識』は、あまりにも非効率で、そして危険すぎる)


俺は、顕微鏡のような自作の観察器具を覗き込みながら、思考を巡らせる。きっかけは、数日前にレオが負ってきた、ほんの小さな切り傷だった。彼は荷運びの最中に、錆びた鉄屑で手の甲を少し切っただけ。だが、その傷は赤く腫れ上がり、膿を持ち、高熱の原因となった。


セツナが慌てて「ヴィータ・バーム」を塗り込み事なきを得たが、俺はその光景に、地球の歴史における、ある「壁」を思い出していた。


「感染症」。この世界には、その概念が、まだない。


傷は、ポーションや治癒魔法で塞ぐもの。病は、薬草を煎じて飲むか、祈りで癒すもの。だが、そのどちらも持たない貧しい者たちは、ほんの小さな傷が原因で、命を落とすことも珍しくない。彼らは、目に見えぬ脅威――細菌やウイルスの存在を知らないのだ。


〈アイ。この世界の医学体系における、『予防』という概念の有無を再検索しろ〉


《マスター。データベースを更新しましたが、該当する概念は発見できません。治療は、常に発症後の対症療法に限定されています。衛生、殺菌、消毒といった概念は、錬金術師や一部の薬師が、極めて限定的な状況でのみ用いる、秘術の類と認識されています》


「だろうな。……なら、俺たちのやることは決まったな」


俺が創り出すのは、奇跡の薬ではない。この世界の誰もが手にできる、「当たり前の健康」だ。


俺は、ギドに、ある奇妙な依頼を出した。森で狩った魔獣の「脂肪」を、できるだけ多く確保すること。そして、工房の近くにある木々を燃やし、大量の「木灰」を集めること。


「カガヤ様、これは一体、何にお使いになるので?」


怪訝な顔をするギドに、俺は不敵に笑って見せた。


「世界を変えるための、材料さ」


研究室に運び込まれた魔獣の脂と木灰。俺は、それらを巨大な鍋で熱し、攪拌していく。地球の、ごく初歩的な化学の知識。「鹸化」と呼ばれる、油脂とアルカリを反応させるプロセスだ。


《マスター。木灰から抽出した炭酸カリウム水溶液と、魔獣の脂肪酸が、理想的な鹸化反応を示しています。反応温度をあと7.3度上昇させれば、グリセリンの生成が最大化されます》


アイのナビゲートに従い、火力を微調整する。鍋の中身は、やがて、どろりとした粘性の高い液体へと姿を変えていった。


「第一段階は、クリアだな」


次に、俺はその液体に、数種類の薬草から抽出したエキスを加えていく。それらは、アイの分析によって、強力な殺菌・抗菌作用を持つことが判明している、この世界の「天然の抗生物質」だ。


「セツナ。悪いが、少し手を貸してくれ」


俺は、帳簿の山と格闘していたセツナを研究室に呼び寄せた。


「これは……?なんとも、不思議な匂いがしますね」


薬草と、化学反応が混じり合った独特の匂いに、彼女は僅かに眉をひそめる。


「新しい商品だ。これから、これを型に流し込み、冷やし固める。手伝ってほしい」


俺たちは、二人で、まだ温かい液状のそれを、木製の型枠へと、一つ一つ丁寧に流し込んでいった。その共同作業は、どこか、新しい世界の礎を、二人で築いているかのような、不思議な充実感があった。


数日後。型枠から取り出されたそれは、乳白色の、滑らかな固形物となっていた。


「これが、俺たちの新しい武器だ」


俺は、完成したばかりのそれを手に取り、高らかに宣言した。


「名を、『カガヤ印の石鹸』とする!」


その日の午後、俺は工房の子供たちを集め、その「石鹸」の、驚くべき力を実演して見せた。泥だらけになった手を、石鹸で洗い、泡立てる。すると、これまで水だけでは決して落ちなかった汚れが、白い泡と共に、魔法のように消えていく。


「すげえ!」

「手が、ツルツルになった!」

「なんだか、良い匂いがするぞ!」


子供たちは、目を輝かせ、大騒ぎだ。


「いいかい、みんな。これは、ただ汚れを落とすだけのものじゃない」


俺は、真剣な顔で彼らに語りかけた。


「目に見えない、お前たちを病気にする悪い奴らを、やっつけるための『武器』なんだ。食事の前、怪我をした時、必ず、これで手を洗うこと。それが、お前たち自身と、お前たちの大切な人を守るための、一番簡単な、そして一番強い魔法なんだ」


その日から、「手を洗う」という新しい習慣が、工房の日常となった。


そして、その一週間後。リコとレオが、興奮した様子で、俺に報告をもたらした。


「カガヤ!大変だよ!俺たちの『武器』、とんでもないことになってる!」


リコたちが、スラムの住民たちに、石鹸のサンプルと、その「魔法の効果」を説いて回った結果、驚くべき変化が起きていた。これまで、些細な傷や病で寝込む者が絶えなかったスラムで、明らかに、体調を崩す者の数が減っているというのだ。


「カヤガ工房の『お守り』、マジですげえ!」

「あいつを使い始めてから、ガキの肌のブツブツが、綺麗に治ったんだ!」


噂は、口コミという、最も原始的で、しかし最も強力な情報網を通じて、シエルの下層社会を駆け巡った。


衛生という概念が、この小さな石鹸一つによって、今、この混沌の都市に、産声を上げたのだ。


それは、やがてこの大陸の歴史そのものを塗り替えることになる、静かで、しかし偉大な「革命」の、始まりだった。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!

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