幕間6-2:星の祈り、乙女のため息
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王都アウレリアの空は、今日も変わらず、高く澄み渡っていた。
聖女セレスティアは、王都中央教会の一室、彼女に与えられた質素な私室のバルコニーから、そのどこまでも続く蒼穹を見上げていた。あの日、カガヤ・コウという名の、星の海から来た旅人が東の地へと旅だってから、季節は一つ巡ろうとしていた。
彼の不在は、セレスティアの日常に、静かだが確かな変化をもたらしていた。教会での祈りの時間は、以前にも増して神聖なものとなった。だが、その祈りの対象は、もはや正教会の教えが説く、漠然とした唯一神ソリスだけではない。彼女の祈りには、遥か遠い地で戦う、一人の男の無事を願う、極めて個人的で、切実な響きが込められていた。
「コウ……。今、どこで、何をしていますか……」
彼のことを思うと、胸の奥が、きゅっと甘く痛む。その痛みこそが、遥か遠い地にいる彼と自分とを繋ぐ、唯一で確かな魂の絆なのだろう。
日中の多くの時間は、ゼノン王子が彼女たちのために密かに用意した、王城の奥にある書庫で過ごした。ハイエルフの賢者リリアンナと共に、旧王都遺跡で垣間見た『創世の記録』の断片を解読し、この世界の真の理を探究する。それは、彼女にとって、これまでにない知的な興奮に満たた時間だった。
「光の屈折、魔力の波長、万有引力……。コウが教えてくださった『理術』の基礎を知れば知るほど、この世界の全てが、美しい法則で満ちていることに気づかされます」
「そうね。神の奇跡も、邪神の呪いも、突き詰めれば、全ては観測可能な物理現象。面白いわよね、本当に」
リリアンナとの対話は、セレスティアの世界を、色鮮やかに広げてくれた。彼女はもはや、教会の教えだけを盲信する、無垢な聖女ではない。自らの目で世界を見つめ、自らの頭で真実を考える、一人の探求者へと、静かに、しかし確実に変貌を遂げつつあった。
そんな穏やかなある日の午後。事件は、前触れもなく彼女を襲った。
いつものように、自室の小さな礼拝堂で一人、静かに祈りを捧げていた、まさにその時だった。突如、彼女の脳裏に、灼けつくような、鮮烈なビジョンが叩きつけられた。
―――錆と埃にまみれた、巨大な混沌の都市。
―――水を、水をくれ、と喘ぐ、無数の人々の、乾ききった声。
―――大地を内側から蝕むように広がる、黒い霧。
―――そして、その全ての絶望の中心で、天を仰ぎ、たった一人で戦おうとする、カガヤの苦悩に満ちた横顔。
「―――黒い太陽が、大地を喰らい、シエルの街が、沈黙の灰に覆われる」
神託。それは、これまでのような断片的な映像ではなかった。一つの、明確な「物語」として、彼女の魂に、直接焼き付けられたのだ。
「……っ、コウ!」
セレスティアは、自らの口から漏れた悲鳴で、現実へと引き戻された。全身は冷たい汗で濡れ、心臓が警鐘のように激しく脈打っている。
シエルで、何かとてつもなく、恐ろしいことが起ころうとしている。そして、彼は、その渦の中心で、一人で戦おうとしている。
(伝えなければ。一刻も早く、彼に!)
だが、どうやって?王都にいる彼女の行動は、今もなお、異端審問官サルディウスの配下によって、厳重に監視されている。彼女から発せられる手紙は、その一字一句に至るまで、検閲されるだろう。下手に動けば、カガヤに危険を知らせるどころか、彼を、そして自分自身をも、さらなる窮地へと追い込むことになりかねない。
彼女は、誰にも気づかれぬよう、教会と王城を結ぶ古の秘密通路を使い、リリアンナと共に第二王子ゼノンの私室へと向かった。事情を打ち明けると、ゼノンは厳しい表情で腕を組んだ。
「……邪神教の仕業か?奴らがついに本性を現したのかもしれないな。だが、聖女様、あなたの言う通り、公に兵を動かすことも、使者を送ることもできん。サルディウスが、それを許さないだろう」
万策尽きたか、と思われたその時、ゼノンが静かに口を開いた。
「光の道が駄目ならば、闇を駆けるしかない。……聖女様、あなたのその神託、彼の元へ、私の『影』が届けましょう」
王子は、部屋の隅の暗がりへと視線を向けた。すると、それまで何の気配もなかった空間から、一人の黒装束の密使が音もなく姿を現し、ゼノンの前に膝をついた。王家直属の諜報組織「影」。彼らは、教会の監視網すら欺き、王国内のあらゆる情報を集める、王子の目であり耳だった。
「聖女様が認める手紙を、最短でカガヤ殿の元へ届けよ。馬を乗り換え、昼夜を問わず駆け続けろ」
「御意に」
密使は短く応えると、セレスティアが書き記した手紙を受け取った。この手紙が、彼の元へ無事に届くこと。そして、彼がこの警告の意味を理解し、最悪の未来を回避してくれること。彼女は、ただそれだけを、強く、強く祈った。密使は、その手紙を懐にしまうと、再び闇の中へと音もなく消えていった。
◇
それから、さらに十日が過ぎた。シエルの危機を告げた神託以来、セレスティアの心は、一日たりとも休まることはなかった。
そんな彼女の元に、待ちわびた便りが届いたのは、よく晴れた日の午後だった。ゼノン王子が、極秘裏に手配した商人経由で届けられた、カガヤからの手紙。彼女は、震える手で、その封を切った。
羊皮紙には、シエルで起こった一連の事件の顛末が、詳細に綴られていた。地下遺跡の暴走、街を襲った謎の病、そして、彼が仲間たちと共に、その危機を乗り越えたこと。
『――君が送ってくれた警告のおかげで、俺たちは、敵の攻撃の本質に、いち早く気づくことができた。あれが、全ての始まりだった。心から、感謝する』
その一文を読んだ瞬間、セレスティアの瞳から、安堵の涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。自分の力が、彼の助けになった。その事実が、彼女の心を、これ以上ないほどの幸福感で満たした。
だが、手紙を読み進めるうちに、彼女の頬は、むっ、と小さく膨れ上がった。
『……幸い、俺には、最高のパートナーがいてくれた。彼女の冷静な判断力と、誰よりも仲間を思う心がなければ、この勝利はなかっただろう』
最高の、パートナー?
彼女?
セツナ、という、その名。コウが、新しく名付けたという、元・王家の影。その存在は、ゼノン王子からも聞いていた。聞いてはいたが……。
(パートナー、ですって……?しかも、最高の……?)
セレスティアの脳裏に、様々な想像が駆け巡る。元・王家の影……。ゼノン王子から、その過酷な生い立ちについては聞いていました。きっと、感情を殺し、ただ影として生きてこられたのでしょう。そんな方が、カガヤ様の隣で、心を……開いた? 彼が、その凍てついた心を溶かしたのでしょうか。……だとしたら、その絆は、どれほど深く、強いものなのでしょう。……まさか……!?
そこまで考えて、彼女はぶんぶんと首を振り、自らの不埒な思考を打ち消した。
(いけません、セレスティア!私は、聖女なのですから!……それに、彼は、無事なのですから!)
そうだ。嫉妬など、している場合ではない。彼が無事で、そして、彼の周りに、彼を支えてくれる、素晴らしい仲間たちがいる。それこそが、何より喜ぶべきことなのだ。
彼女は、手紙をそっと胸に抱きしめると、再び、礼拝堂へと向かった。
その祈りは、もはや、神へ捧げる聖女としてのものではなかった。遥か遠いシエルの地で、新たな未来を切り拓こうとする、一人の男と、その大切な仲間たちの、健康と、成功を願う。彼女自身の、光り輝く魂そのものを、この世界の理の波に乗せて、届けとばかりに。
(神様、どうか、あの男が『最高のパートナー』などと他の女にうつつを抜かさぬよう、お導きくださいませ……!)
彼女は、はっと我に返り、自らのあまりにも俗な願いに頬を染めた。
(いえ、別に嫉妬などでは!聖女として、彼の魂が間違った道に進まぬか、ただ心配しているだけです!ええ、そうですとも!……それにしても、あのセツナとかいう方。コウを支えるに足る、真に気高く、強い女性なのでしょうね。どうか、彼女にも、神の祝福と、そして、ささやかな『試練』がありますように……)
口元は聖女の微笑みを浮かべながらも、その祈りは、極めて人間的で、そして切実な乙女のエールとなって、遥かシエルの空へと飛んでいくのだった。
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