幕間6-1:王都の夜、影の夜明け
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フォルトゥナ王国の心臓、王都アウレリア。その壮麗な王城の一室で、第二王子ゼノン・エゼ・フォルトゥナは、執務机に置かれた一通の手紙を、静かに見つめていた。夜も更け、城内が寝静まる中、彼の私室だけが、ランプの柔らかな光に満たされている。
手紙の封蝋は、公式な書状に用いられる紋章ではなく、質素だが実用的な蝋で固められていた。差出人の名は記されていない。だが、その便りを届けたのが、自由交易都市シエルを拠点とする商人バルトランの隊商であること、そして、その筆跡に、ゼノンは見覚えがあった。
彼が「カゲ」と呼んだ、影の少女の筆跡だ。
羊皮紙に綴られていたのは、まず、カガヤ・コウが、かの混沌の都市シエルで興した「交易商会ミライ」の、驚くべき立ち上がりの様子だった。現地で孤児たちをまとめ、新たな販売網を築き、錬金術ギルドの妨害を退け、ついには最強の武力集団である鉄血傭兵団と提携を結ぶに至ったこと。その全てを、カガヤという男が、その異質な「理術」と、常識外れの発想、そして仲間との絆で成し遂げていった様が、客観的かつ簡潔に、しかし、どこか誇らしげな響きを持って記されていた。
(……やはり、あの男は面白い。俺の想像を、常に良い意味で裏切ってくれる)
ゼノンは、口元に微かな笑みを浮かべた。カガヤという規格外の駒をシエルに送り出したのは、ある種の賭けだった。その賭けが、予想以上の成果を上げていることに、彼は満足していた。
だが、彼が本当に心を動されたのは、手紙の後半、追伸として、ためらいがちに書き加えられた一節だった。
『――王子殿下。これなるは、王家の影としてではなく、一個人の願いにございます。殿下より与えられた『カゲ』という名は、光を知ってしまった今の私には、もはや相応しからぬものと感じるのです。カガヤ様は、私に、新しい名と、そして新しい生きる意味を与えてくださいました。どうか、このセツナという名の、新たな人生を、お許しいただけないでしょうか』
セツナ。カガヤが、彼女に与えた新しい名。その響きを、ゼノンは口の中で、そっと転がしてみた。
(……そうか。ついに、お前自身の言葉で、それを願うようになったか)
彼の脳裏に、数年前の、ある光景が鮮やかに蘇る。それは、彼が初めて、あの少女――カゲと出会った日の記憶だった。
◇
王都の地下深くに存在する、王家直属の諜報・暗殺組織「影」。その存在は、王族の中でもごく一部の者しか知らない、フォルトゥナ王国の最も暗い部分だった。戦災孤児や、裏社会で見出された才能ある子供たちを集め、感情を殺し、ただ任務を遂行するためだけの「道具」として育てる、非情の組織。
若き日のゼノンは、父王の代理として、その組織の「成果」を検分するために、薄暗い訓練場を訪れていた。並み居る候補生たちが、次々とその技を披露していく。誰もが、常人を遥かに超える身体能力と、冷徹な精神を兼ね備えていた。だが、ゼノンの目に、彼らは皆、同じ色に見えた。忠誠という名の鋳型にはめ込まれた、個性のない駒。
その中で、一人だけ、異質な存在がいた。
年の頃は十にも満たないであろう、小柄な少女。他の候補生のような猛々しさはなく、ただ、そこにいるのかいないのかさえ分からないほど、その気配は希薄だった。だが、ひとたび模擬戦闘が始まると、その空気は一変した。
彼女は、まるで舞うように、音もなく敵の死角へと入り込み、その小さな手にした木剣で、的確に、そして一切の躊躇なく、相手の急所を突いていく。その動きに、怒りも、憎しみも、喜びさえもない。ただ、与えられた任務を、最も効率的に、最も迅速に完了させるためだけの、完璧なアルゴリズム。
「――これが、今回の候補生の中で、最高の逸材にございます」
組織の教官が、満足げにそう報告した。他の貴族や将軍たちも、その完璧な「道具」の完成度に、感嘆の声を漏らしている。
だが、ゼノンの心は、冷たく沈んでいた。彼は、その少女の瞳から、何も感じ取ることができなかったのだ。光も、影も、希望も、絶望も。そこにあるのは、完全に感情を殺し、ただ命令を待つだけの、底なしの虚無。
(これは、兵士ではない。……ただ、壊れてしまった、人形だ)
その瞬間、ゼノンの中に、これまで感じたことのない、強い感情が芽生えた。それは、憐憫であり、そして、このようなシステムを許容している王家そのものへの、静かな怒りだった。彼は、この少女を、このまま組織の闇の中で、使い潰されるだけの道具にしてはならない、と強く思ったのだ。
「その者、私が預かろう」
ゼノンの突然の申し出に、その場にいた誰もが驚いた。王子直属の護衛や密偵は、他にも数多くいる。なぜ、わざわざ、この完成されたばかりの「最高傑作」を。
「異なことを仰せられますな、王子殿下。この者は、暗殺と諜報に特化した『影』。殿下の身辺警護には、もっと相応しい者がおりましょう」
「構わん。俺の側付きとする。これより、その者の名は『カゲ』だ。俺の影として、俺に仕えさせよ。これは、決定だ」
有無を言わせぬ王子の言葉に、誰も逆らうことはできなかった。
それ以来、カゲは、文字通りゼノンの「影」となった。彼女は、ゼノンのどんな命令にも、完璧に応えた。だが、彼女が自らの意思で何かを語ったり、感情を見せたりすることは、ただの一度もなかった。
ゼノンは、彼女に話しかけ、本を与え、時には街の喧騒を見せたりもした。だが、彼女の心の氷は、決して溶けることはなかった。彼は、自らの無力さを痛感すると同時に、いつか、この少女の心を溶かすような、規格外の「熱源」が現れることを、密かに願い続けていた。
そんな折に、現れたのが、カガヤという男だった。
◇
(……あの男なら、あるいは)
カガヤをシエルへ送り出す、と決めた時。ゼノンは、迷わず、その護衛にカゲを指名した。側近たちは、最高の駒を、なぜ得体の知れない異邦人につけるのかと、猛反対した。
だが、ゼノンの考えは違った。これは、戦略的な判断であると同時に、彼個人の、大きな賭けだった。カガヤは、この世界の常識にも、王家の権威にも、教会の教えにも縛られない。彼自身の「理」で動き、物事の本質を見抜く男だ。そんな男の隣にいれば、命令と忠誠だけで生きてきたカゲの世界は、根底から覆されるかもしれない。
彼女が、初めて「任務」以外の何かを見つけるかもしれない。初めて、自らの「意思」を持つかもしれない。それは、彼女を「道具」ではなく、「人」へと戻すための、唯一の機会だと、ゼノンは直感していた。もちろん、その裏には、カガヤという得体の知れない、しかし計り知れない価値を持つ男との繋がりを、彼女を通じて保っておきたいという、冷徹な王族としての打算があったことも、また事実であった。
(結果として、やはり俺の目に狂いはなかった、というわけか)
ゼノンは、手紙を机に置くと、窓の外に広がる、王都の夜景を見やった。東の空の、その遥か向こうにある、自由交易都市シエル。そこに、彼が解き放った「影」は、今、一人の人間として、光の中を歩み始めている。
手紙の最後は、こう締めくくられていた。
『――殿下には、感謝しております。私に、カガヤ様と出会う『任務』を与えてくださったことを。そして、私に、『セツナ』という、新しい人生を与えてくださったことを』
その、不器用だが、真心のこもった言葉に、ゼノンの胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「ああ。せいぜい、幸せになるがいい」
彼は、誰に聞かせるともなく、そう呟いた。その声には、冷徹な改革者としての顔ではなく、ただ、一人の少女の未来を、心から祝福する、兄のような、あるいは、父のような、穏やかな響きがあった。
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