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第129話:混沌の処方箋

お読みいただき、ありがとうございます。

朝・昼・夕の1日3回の更新を目指しています。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

リコが倒れた夜を境に、シエルの街は、静かな地獄へと姿を変えた。


最初に異変をきたしたのは、スラム街の住民たちだった。リコと全く同じ症状――高熱、倦怠感、そして、どれだけ水を飲んでも癒えることのない、焼けるような渇き。その不可解な病は、当初、不衛生な環境が原因の、ただの流行り病だと思われていた。


だが、病の魔の手は、瞬く間にスラムを越え、職人街へ、そして港湾地区へと広がっていった。身なりの良い商人から、屈強な傭兵まで、身分や種族に関係なく、人々は次々と原因不明の渇きに倒れていく。


街中の井戸は、一夜にして、ただの毒溜まりと化した。人々は、井戸から汲んだ水を口にしては、より一層の苦しみに喘ぎ、やがて、誰も水を飲もうとはしなくなった。俺たちが販売していた「綺麗な水」も、同じだった。浄水フィルターを通しても、この未知の脅威の前では、全くの無力だった。


シエルは、文字通り、水に囲まれながら、渇きによって死に瀕していた。


「カガヤ様。これは……」


工房の執務室で、セツナが窓の外に広がる、静まり返った街を見下ろしながら、息を呑んだ。聖女セレスティアの神託が、現実のものとなりつつあった。


「ああ。だが、なんだか様子がおかしい」


俺は、厳しい表情で、内心アイに問いかけた。


《マスター。現状を分析。今回の事象は、意図的なテロではない可能性が高いと判断します。汚染範囲があまりにも無差別かつ非効率的です。敵味方の区別なく、全ての生命体を巻き込んでいます。これは、制御を失った汚染物質が、ただ漏れ出している可能性が高いです》


アイからの報告は、俺の直感を裏付けるものだった。


その仮説を裏付けるかのように、リコの仲間の一人が、新たな情報を持って工房に駆け込んできた。


「カガヤ兄ちゃん! 大変だ! スラムの連中が、地下水路で気味の悪い『黒い霧』が湧き出てるのを見つけたって!」


黒い霧。その言葉に、俺はセレスティアの神託との関連を直感した。俺はすぐさまギドと忘れられた民の戦士たち数名を招集し、情報のあった地下水路の入り口へと急行した。暗く湿った入り口にたどり着くと、そこには下水の悪臭に混じり、これまで感じたことのない、濃密で禍々しい魔素の匂いが満ちていた。


〈アイ、この魔素のパターンを分析しろ〉


《マスター。これは、我々のデータベースに存在しない、全く未知の魔素汚染物質です。極めて高い毒性を持ち、生命体の魔素循環を、内側から破壊する特性を持っています。しかし、魔力器官がないマスターにはほぼ無毒と言えます。……そして、この汚染源は、さらに地下深くから、漏れ出している模様です。》


アイからの報告に、俺は即座に叫んだ。


「待て、全員止まれ!」


俺の切羽詰まった声に、ギドたちが足を止める。


「カガヤ様、どうなさいましたか?」


「この先の魔素は危険だ。俺なら、その影響を中和しながら進めるが、お前たちが無策で進むのは危険すぎる」


「しかし、あなた様を一人で行かせるわけには……!」


ギドが、己の無力さを噛み締めるように、悔しそうに声を上げる。


俺は、ギドの言葉には答えず、ただ静かにセツナを見つめた。


「セツナ。分かるな?」


セツナは、俺の目を真っ直ぐに見返し、一度だけ、力強く頷いた。そして、ギドに向き直り、静かに、しかし有無を言わせぬ口調で告げる。


「ギド殿。カガヤ様の判断です。我々の任務は、地上に戻り、地上で待つ仲間たちへの連絡と、万が一の事態に備えること。……分かりますね?」


彼女の言葉は、俺の代弁であり、この工房の最高執行責任者としての命令でもあった。


「そういうことだ。セツナの指示に従ってくれ。頼んだぞ」


俺はそう言い残し、一人、地下水路のさらに奥深くへと、足を踏み入れた。


そして、そこで、俺は、信じられない光景を目の当たりにする。


水路の行き止まり、古い時代のものと思われる、石造りの祭壇のような場所。そこに、十数人の人間が、まるで打ち捨てられた人形のように、折り重なるようにして倒れていたのだ。


彼らが身に纏っていたのは、見覚えのある、黒いローブ。


「炎の紋章」――。


俺は、慎重に彼らに近づき、その状態を確認する。全員が生きている。だが、その呼吸は浅く、高熱にうなされ、ひび割れた唇で、か細く、水を求めていた。リコと、全く同じ症状。いや、それ以上に、重篤だ。


祭壇の中央には、何らかの儀式の痕跡を示すように、砕け散った魔道具の残骸と、黒く変色した魔石が転がっている。


「……自爆、か」俺は、吐き捨てるように言った。「奴らは、何らかの儀式で、古代の力を呼び覚まそうとした。だが、その制御に失敗し、自らが、その力の最初の犠牲者となった。そして、その暴走した力が、黒い霧となって、シエルの地下水脈を、汚染し続けている」


なんという、皮肉。そして、なんという、愚かさ。


俺としても、彼らをここに放置しておくことを良しとはしない。だが、かといって、これまでの彼らの行いを鑑みれば、積極的に助ける義理もない。何より、工房の仲間たちを危険に晒すわけにはいかなかった。


〈アイ、この場で分析を開始する。リコや、街の人々を救うには、まず、この症状の原因を正確に解明しなければな〉


俺は携帯型エーテル・リアクター『カタリスト』を取り出し、アイに指示を出す。


「対象の魔素汚染物質を詳細にスキャン。医療用ナノマシンを注入する」


そう言うと、俺は医療ナノマシンが入ったアンプルを、カタリストで制作した『純水』に数滴垂らす。それを近くにいた炎の紋章のメンバーに飲ませた。


〈アイ。医療用ナノマシンからのデータをモニタリング。体内サンプルを採取して分析〉


《了解。モニタリング及び、サンプルを採取します。……分析開始》


俺の腕の触媒が淡く光る。数秒後、アイからの報告が脳内に届いた。


《分析完了。汚染物質は、未知の有機化合物と魔素の複合体。生命体の水分子と結合し、深刻な魔素循環不全を引き起こします。現時点での治療法は、ナノマシンによる対症療法以外にありません。根治には、汚染源そのものを無力化する必要があります》


「汚染源を何とかすれば、改善する見込はあるか?」


《マスター。当該魔素化合物は構造的に極めて不安定であり、その半減期は推定48時間と算出されます。汚染源からの供給さえ断てば、環境中の汚染物質は自己崩壊し、毒性は速やかに消失すると結論します。》


「そうか……」


俺は、その場に倒れる信者たちを一瞥した。


「すまないが、お前たちを助けてやれるのは、街を救った後になりそうだ。それまで生きていたら……だけどな」




地上でセツナやギドと合流した俺は、工房に戻り、すぐにリコの治療に取り掛かった。


〈アイ。汚染物質の構造を分析。リコの体内で、どう作用している?〉


《汚染物質は、体内の水分子と結合し、その性質を強制的に変異させています。その結果、細胞は水分を正常に吸収できず、極度の脱水症状を引き起こしているのです》


「治療は可能か?」


《医療用ナノマシンを使い、汚染物質と結合した水分子を、強制的に分離させます。ですが、これはあくまで対症療法。汚染された水を飲み続ける限り、根本的な解決にはなりません》


俺は、アイの指示に従い、ナノマシンをリコの体内に注入する。苦しげだった彼女の呼吸が、少しずつ、穏やかになっていく。高熱に浮かされていた顔に、僅かながら、血の気が戻ってきた。


「……カガヤ……兄ちゃん……?」


「喋るな、リコ。今は、ゆっくり休め」


彼女が、ひとまず小康状態になったのを確認し、俺は安堵のため息をついた。だが、問題は、何も解決していない。


〈大本の汚染源を止めない限り、シエルは、いずれ……〉


その時だった。工房の外から、地鳴りのような、不気味な音が聞こえてきた。それは、次第に大きくなり、やがて、数百、いや数千の人々の、怒号の渦となって、俺たちの工房を包み込んだ。


「カガヤを出せー!」

「あの異邦人が、街に呪いをかけたんだ!」

「あいつは禍つ者だ! あの工房を、焼き払え!」


俺は、窓から、その光景を目の当たりにし、唇を噛んだ。


工房の前を、松明や、錆びた剣を手にした、数えきれないほどの市民が、埋め尽くしている。その目は、恐怖と、憎悪と、そして、誰かに扇動された、盲目的な正義に濁っていた。


「ザルム……。あの野郎、この機を逃さなかったか」


錬金術ギルド長、ザルム。彼は、この街の混乱を、全て俺のせいだと民衆に吹聴し、自らの失地回復と、俺の社会的抹殺を、同時に行おうとしているのだ。


「カガヤ様! このままでは……!」


セツナが、俺の隣で、厳しい表情で呟く。工房の入り口では、ギドたちが、屈強な体でバリケードを築き、鉄血傭兵団の傭兵たちが、暴徒と工房の間に、最後の壁として立ちはだかっていた。


だが、彼らの数にも、限りがある。民衆の怒りの津波は、今にも、俺たちのささやかな砦を、飲み込もうとしていた。


リコの苦しむ顔。外で響き渡る、俺への憎悪の声。そして、セレスティアの、あの不吉な神託。


――黒い太陽が、大地を喰らい、シエルが、沈黙の灰に覆われる。


「……なるほど。治療すべきは、この街の病そのもの、か」


俺は、静かに、しかし、心の底から湧き上がる、冷たい怒りと共に、そう呟いた。

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