第128話:封蝋の預言
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シエルに吹く風の匂いが、変わった。俺たちが「沈黙の森」から帰還し、太陽草の市場価格を破壊してから、十日。ギルドとの経済戦争が生んだ、あの張り詰めた空気は鳴りを潜め、代わりに、フル稼働する俺たちの工房が放つ、力強い活気が街の一部となりつつあった。それは、甘く、しかしあまりにも脆い、束間の平穏だった。
セツナは、現場の責任者として、その才能を遺憾なく発揮していた。彼女が作り上げた効率的な生産・販売システムは、工房の利益を安定させ、リコたち孤児の生活を豊かにし、忘れられた民のギドたちに、確かな誇りと生きがいを与えていた。彼女は、もはや王家の「影」ではない。この工房という名の、新しい家族を導く、太陽のような存在だった。
穏やかな日々。それは、俺がこの世界に来て、初めて手に入れた、温かく、そしてかけがえのない宝物だった。
だが、この世界の神は、俺に、そう長い間の休息を許してはくれなかったらしい。
その日、工房に、王都アウレリアとの間を定期的に往復しているバルトランの隊商が、荷を運んできた。その中に、俺個人に宛てられた、一通の封蝋された手紙があった。差出人の名を見て、俺の心臓が、とくん、と小さく跳ねた。
――セレスティア・ウル・エクレシア。
聖女、セレスティアからの手紙だった。
執務室に戻った俺は、セツナと共に、その手紙の封を切った。美しい、しかしどこか力のこもった筆跡で、王都の現状が綴られていた。
『カガヤ様。お元気でお過ごしでしょうか。あなたが王都を去られてから、このアウレリアにも、少しずつですが、変化の風が吹いています』
手紙によれば、俺が開発した「魔力枯渇病」の治療薬のレシピは、第二王子ゼノンを通じて、王家の薬師たちに共有され、その製造が始まっているという。しかし、その技術の独占と、利権を巡り、貴族たちの間では、醜い権力闘争が繰り広げられているらしい。
『そして、教会もまた、揺れています。筆頭異端審問官様は、あなたの存在を『神への冒涜』とし、私やゼノン殿下を『異端者に与する者』として、その影響力を強めています。教会内の穏健派の方々も、今は身を潜めるしかない状況です……』
「……やはり、あの男が、か」
俺の呟きに、セツナが、心配そうな表情で俺の顔を覗き込む。王都の情勢は、俺が思っていた以上に、きな臭い方向へと進んでいるようだった。
そして、手紙は、俺の背筋を凍らせる、衝撃的な一文で締めくくられていた。
『追伸。カガヤ様。先日、私は、また、新たな『神託』を視ました。それは、あまりにも恐ろしい光景でした。どうか、お気をつけください。……黒い太陽が、大地を喰らい、シエルの街が、沈黙の灰に覆われる、未来を……』
黒い太陽。シエルが、灰に覆われる。
その言葉が、俺の脳内で危険な警報を鳴らした。「黒い太陽」と「沈黙の灰」。セレスティアの視たその終末の光景は、忘れられた民の長老が語った言葉と重なった。
『奴らが求める真の理の行く先は、破壊じゃ』。――「炎の紋章」。奴らの言う「浄化」の正体は、生命の根絶。神託は、あの狂信者たちがこのシエルで何かを企んでいることを示唆していた。
「セツナ。状況は、俺たちが考えていたよりも、遥かに悪いかもしれない」
俺は、手紙の内容を、セツナに伝えた。彼女の顔から、さっと血の気が引いていく。
「まさか……。あの者たちが、このシエルそのものを……?」
「ああ。奴らの言う『浄化』が、何を意味するのか。最悪の事態を、想定しておく必要がある」
俺は、すぐに行動を開始した。
〈アイ。監視を強化しろ。シエルの全域、特に、地下水路や、古代遺跡の可能性がある区域を、24時間体制で監視。どんな些細な魔素の異常も、見逃すな〉
《了解しました、マスター。スティンガーⅣを展開。シエルの監視ネットワークを再構築します》
「リコ!」
俺は、階下にいるリコを呼びつけた。
「お前たちの情報網を、最大レベルで稼働させろ。街のどんな小さな噂話でもいい。『黒いローブの連中』『奇妙な儀式』『原因不明の病気』。それらしい言葉を聞いたら、すぐに俺に報告しろ」
「分かった、カガヤ! あたしたちに任せな!」
リコは、事の重大さを察し、真剣な顔で頷くと、風のように工房を飛び出していった。
「カガヤ様。私も、動きます」
セツナが、いつの間にか、かつての「影」の気配を纏い、俺の前に立っていた。
「工房の経営は、一時的にギドに任せます。私は、私のやり方で、奴らの尻尾を掴んでみせます」
「……危険だぞ」
「私の心配は無用です。それよりも、どうか、あなたもお気をつけて」
彼女は、そう言うと、闇に溶けるように、その姿を消した。
こうして、俺たちの、見えない敵との戦いがいよいよ始まった。偵察ドローンが、シエルの空と地下を網の目のように監視し、孤児たちが、街の隅々の情報を吸い上げる。セツナは、その影の能力を駆使し、怪しい場所への潜入調査を繰り返した。
だが、時間は、ただ、静かに過ぎていくだけだった。
一週間が過ぎても、「炎の紋章」の具体的な動きは、何も掴めなかった。リコたちが以前報告していた、スラムでの布教活動さえ、今は鳴りを潜めている。まるで、彼らが、最初から存在しなかったかのように。
工房には、奇妙な緊張感が漂い始めていた。見えない敵、分からない攻撃。それは、肉体的な疲労よりも、遥かに人の精神を蝕む。
「カガヤ様。……何も、ありません」
その夜、調査から戻ったセツナが、悔しそうに報告した。
「奴らは、一体、どこで、何を……」
その時だった。
コンコン、と、執務室の扉が、弱々しくノックされた。
「……どうした、レオか?」
入ってきたのは、孤児たちの年長格である、レオだった。だが、その顔は、青ざめ、額には、びっしょりと脂汗が浮かんでいる。
「カガヤ……兄ちゃん……。リコが……リコの様子が、おかしいんだ……」
俺たちは、急いで子供たちの寝室へと駆けつけた。
そこにいたのは、いつもは勝ち気で、誰よりも元気なリコの、変わり果てた姿だった。
彼女は、ベッドの上で、ぐったりと横たわり、荒い息を繰り返している。その体は、高熱で燃えるように熱く、唇は、ひび割れて、乾ききっていた。
「水を……。水が、飲みたい……」
か細い声で、彼女はそう訴える。俺は、すぐに、工房の「綺麗な水」を彼女の口元へ運んだ。だが、彼女は、その水を数口飲んだだけで、苦しげに顔を歪めた。
「だめだ……。飲んでも、飲んでも、喉が、焼けるように渇くんだ……。体が……動かない……」
原因不明の病と、異常なほどの渇き。
俺は、セレスティアの手紙にあった、あの不吉な一文を、思い出していた。
――黒い太陽が、大地を喰らい、シエルが、沈黙の灰に覆われる。
「……始まった、のか……」
俺の呟きは、誰に聞こえるでもなく、静かな、しかし絶望に満ちた部屋に、重く響き渡った。
「炎の紋章」の攻撃は、俺たちの、全く予想しない形で、すでに、始まっていたのだ。
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