第126話:市場の神は気まぐれ
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俺たちが「沈黙の森」から帰還し、太陽草の安定供給を確保してから、一週間が過ぎた。工房は、ギルドによる兵糧攻めの影響など微塵も感じさせない、活気に満ちた日常を取り戻していた。『アクア・ヴィータ』及び『アクア・ヴィータ・フォルテ』の生産ラインはフル稼働し、新たに開発した濃縮回復軟膏『ヴィータ・バーム』の正式販売も決定し、それらは俺たちの事業を支える確かな柱となっていった。
だが、俺の頭の中は、決して晴れやかではなかった。工房の奥の執務室で、俺は一枚の羊皮紙に、複雑な図式を描き込んでいた。生産、販売、在庫管理、そして、原材料の調達。その全ての流れを可視化した、サプライチェーンのフローチャートだ。
「……やはり、ここがボトルネックだな」
俺は、フローチャートの一点、「原材料調達」の項目を、ペン先でコツコツと叩いた。沈黙の森での太陽草の確保は、ギルドの支配を受けない、独立した供給ルートを確立したことを意味する。だが、そこには少なからずの代償を伴った。
《マスター。現状の生産量を維持するためには、最低でも七日に一度、マスターかセツナが「沈黙の森」へ赴き、太陽草を採取する必要があります。これは、事業継続における、極めて高いリスク要因です》
アイの冷静な分析は、俺が抱える問題を、的確に指摘していた。
あの森の危険度は、森の主『グレイヴン・トレント』を倒した今も、決して低くはない。並の傭兵や冒険者が、安全に採取活動を行える場所ではない。つまり、この工房の生産活動は、俺かセツナという、極めて属人的なスキルに、完全に依存してしまっているのだ。
俺かセツナのどちらかが動けなくなれば、不測の事態への反応が明らかに遅れてしまう。これでは、工房として、あまりにも不安定な経営と言わざるを得ない。
〈自動で魔獣を撃退するドローンの開発……いや、今の資材では無理か。ならば、俺の理術を応用した、簡易的な魔獣除けの道具をギドたちに作ってやるか……? いや、それでもあの森の主だったグレイヴン・トレント級の魔獣が現れたら、気休めにしかならない。危険すぎる〉
俺が、頭を抱えて唸っていた、その時だった。
「カガヤ! 大変だ! 大変なことになった!」
執務室の扉が、勢いよく開け放たれた。血相を変えて飛び込んできたのは、街の市場の様子を探りに行っていた、リコだった。その手には、まだ土の匂いがする、数本の太陽草が握られている。
「どうした、リコ。落ち着け。……まさか、ギルドの連中が、また何か仕掛けてきたのか!?」
俺は、最悪の事態を想定し、身構えた。だが、リコの口から飛び出したのは、俺の予測を、斜め上から遥かに超えていく、驚くべき言葉だった。
「ち、違う! そうじゃないんだ! 市場に……市場に、太陽草が、溢れかえってるんだよ!」
「……なんだって?」
俺は、一瞬、彼女が何を言っているのか、理解できなかった。
「馬鹿な。あの『沈黙の森』は、危険すぎて誰も近づけないはずじゃなかったのか? ギルドが独占していた太陽草が、なぜ、今になって市場に?」
「それが、分からないんだよ!」
リコは、興奮した様子で、まくし立てた。
「でも、今朝から、急に、冒険者や薬草採りの連中が、山ほどの太陽草を持って、市場に押し寄せてきてるんだ! おかげで、あれだけ高騰してた太陽草の値段が、一気に、前の半値近くまで下がってる!」
その報告に、俺はますます混乱した。隣で話を聞いていたセツナも、訝しげな表情で首を傾げている。
「リコ。何か、原因は分からなかったのか? 魔獣が、急にいなくなった、とか」
「うーん……」
リコは少し考え込むと、思い出したように言った。
「ああ、そういえば、市場の奴らが、変な噂話をしてたな。なんでも、『沈黙の森』の魔獣の質が、最近、急に変わった、って」
「質が変わった?」
「ああ。決して安全になったわけじゃないらしいんだけど、これまで森の奥にいた、とんでもなくヤバい魔獣たちがいなくなって、代わりに、腕利きの冒険者や屈強な傭兵なら、何とか相手にできるくらいの魔獣ばかりになった、って」
リコは、さらに続けた。
「あ、そうだ!思いだした!……それで、腕の立つ連中が、何組か森の奥まで調査に行ったら、分かったんだってさ。……どうやら、『沈黙の森』の主だった、魔骸樹ってのが、誰かに、討伐された後だったらしいんだ」
その言葉が、部屋に響いた瞬間。
俺と、隣に立つセツナは、思わず、顔を見合わせた。
魔骸樹。
討伐された。
誰かに。
……俺たちが……討伐した……よな?
数秒の沈黙。
やがて、どちらからともなく、堪えきれない笑いが、同時に、吹き出した。
「ぷっ……! あははははっ!」
「ふふ……っ、くくく……!」
俺は、腹を抱えて笑い転げ、セツナは、口元に手を当て、肩を震わせている。その顔は、悪戯が成功した子供のように、楽しげに輝いていた。
「え? え? なに? 何がおかしいんだよ!?」
状況が全く理解できず、きょとんとしているリコ。その純粋な反応が、俺たちの笑いを、さらに加速させた。
「いや、すまん、すまん……」
俺は、涙を拭いながら、リコの頭を撫でた。
「まさか、こんな結末になるとは、思ってもみなかったんでな」
「さすがですね、カガヤ様」
セツナが、悪戯っぽく、俺にだけ聞こえるように囁いた。
「ギルドの経済戦略を、物理的に、根底から覆してしまうとは。あなたのやり方は、いつも私の想像を超えていきます」
皮肉のつもりだろうが、その声には、隠しきれない賞賛の色が滲んでいた。
兎にも角にも、これで、俺たちが抱えていた最大の経営課題は、思いがけない形で、完全に解消された。太陽草は、市場から、以前よりも安価で安定して仕入れることができる。もはや、俺たちが危険を冒して、森へ行く必要はない。
俺たちの行動が、結果として、市場の生態系そのものを変えてしまったのだ。ギルドにとっては何とも皮肉な話だが、俺としては、これ以上ない、最高の結果だった。
「さて、と」
俺は、大きく息を吐くと、気持ちを切り替えた。
「これで、原材料の問題は片付いた。工房の経営も、ようやく、本当の意味で安定軌道に乗るだろう。……だが、これで終わったわけじゃない」
俺の言葉に、セツナの表情が、再び引き締まる。
「『炎の紋章』……ですね」
「ああ。ギルドという分かりやすい敵の影で、静かに、そして着実に、この街を侵食している、本当の『病原菌』だ。奴らの相手は、市場原理だけでは通用しない。次は、奴らとの戦いだ」
俺は、執務室の窓から、活気に満ちたシエルの街を見下ろした。
ギルドとの経済戦争は、思いがけない形で、俺たちの勝利に終わった。だが、それは、新たな、そしてより厄介な戦いの始まりを告げる、ゴングに過ぎなかった。
商人として、経営者として、そして、この街に生きる一人の人間として。俺の本当の腕の見せ所は、これからだった。
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