第121話:影の決別
お読みいただき、ありがとうございます。
朝・昼・夕の1日3回の更新を目指しています。
少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。
錬金術ギルドとの一件を乗り越えた夜、俺たちの工房は、ささやかな祝宴の熱気に包まれていていた。ギルドの圧力に屈しなかったという勝利、そして民衆の支持を得たという高揚感が、忘れられた民の獣人たちや、リコ率いる孤児たちの顔を輝かせている。
「カガヤの兄ちゃん、すげえよ! あの偉そうな衛兵たちを、口だけでやっつけちまうんだもんな!」
「リコもすごかったぞ! 衛兵に一歩も引かなかったしな!」
子供たちは、興奮冷めやらぬ様子で、今日の武勇伝を語り合っている。その日の夕食は、ギドが腕によりをかけて作った、山の幸たっぷりのシチューだった。一つの鍋を、立場も種族も関係なく、みんなで笑いながら囲む。工房は、いつの間にか、血の繋がりを超えた、一つの大きな「家族」のような温かい空気に満たされていた。
俺は、その光景を、壁に寄りかかりながら、静かに、そして少しだけ眩しそうに眺めていた。
この温かさは、俺が捨ててきた故郷にも、孤独な宇宙船での生活にも、なかったものだ。守りたい、と。心の底から、そう思った。
その時、ふと、視線を感じた。工房の最も暗い隅。そこに、カゲが、いつものように影として佇み、じっとこちらの様子を見つめていた。そのフードの奥の瞳が、何を思っているのか、俺には窺い知れない。だが、その視線が、今夜はいつもと少しだけ違う気がした。まるで、自分の知らない眩しいものを見て、戸惑っているかのように。
◇
祝宴が終わり、子供たちが工房の二階で寝静まった後。俺は、一人、工房の屋根に上り、シエルの夜景を眺めていた。二つの月が、この混沌の都市を、静かに、そして平等に照らし出している。
「………」
背後から、布が擦れるような、微かな音がした。振り返るまでもない。カゲだった。
カゲは、俺の隣に音もなく立つと、同じように、シエルの街を見下ろした。しばらく、沈黙が続く。ただ、夜風の音だけが、俺たちの間を吹き抜けていった。
その沈黙を破ったのは、カゲの方だった。
「……お尋ねしたいことがあります」
その声は、いつもより、ほんの少しだけ、震えているように聞こえた。
「今日の、あの市場での一件。なぜ、あれほど危険な橋を渡られたのですか。ギルドと敵対することは、我々にとって、何の利益ももたらさない。むしろ、排除すべき脅威を増やすだけの、非合理的な選択です。私の任務は、あなたの身の安全を確保すること。あの行動は、任務の遂行を著しく困難にします」
カゲの言葉は、あくまで「影」としての、論理的な問いかけだった。だが、その奥には、理解できないものに対する、純粋な戸惑いが滲んでいた。
「合理的かどうか、か。……まあ、商人としては、三流のやり方だったかもな」
俺は苦笑した。
「だが、リコたちを見殺しにはできなかった。それだけだ」
「……理解、できません。彼女たちは、あなたにとって、ただの『駒』では?」
「駒?」
俺は、カゲの顔を真っ直ぐに見つめ返した。
「違う。彼女たちは、俺の『仲間』だ。そして、俺がこの街で築く、未来そのものだ」
俺の言葉に、カゲは息を呑んだ。フードの奥の瞳が、大きく揺れる。
「……私には、分かりません」
カゲは、絞り出すように言った。
「仲間、という感覚が。未来、という言葉の意味が。私は……物心ついた時から、『影』として生きてきました」
彼女は、初めて、自らの過去を語り始めた。戦災孤児だったこと。王家の諜報組織「影」に拾われ、感情を殺し、ただ任務を遂行するためだけの道具として育てられたこと。与えられるのは、暗殺と諜報の術のみ。名も、過去も、未来も、全てを捨てさせられたこと。
「第二王子ゼノン殿下は、私に『カゲ』というコードネームと、『任務』という生きる意味を与えてくださいました。あの方への忠誠こそが、私の全てでした。感情は、任務を遂行する上での、ただの雑音。そう、教え込まれてきた。……ですが」
彼女は、そこで言葉を切り、震える手で自らの胸を押さえた。
「あなたと共にいると、この胸の中に、説明のつかない『雑音』が、発生するのです。忘れられた民の里で、あなたが彼らを救った時。今日の市場で、あなたがリコたちを守った時。そして、今、この工房で、あの子供たちが笑い合っているのを見る時。……この『雑音』は、ひどく、これまでの自分を否定するようで恐ろしいのです。しかし、不思議と心地がよくて……。息が、できるような気もするのです」
カゲの告白は、俺の胸を強く打った。カゲは王家への忠誠と、芽生え始めた人間らしい感情との間で、一人、苦しんでいたのだ。この告白そのものが、王子への「裏切り」になりかねないと、怯えながら。
「……すまない。俺が、君を混乱させているんだな」
「いいえ!」カゲは、強く首を横に振った。
「混乱、しているのではありません。私は……選ばなければならないのです。光の届かぬ『影』として生き続けるか、それとも……」
俺は、カゲの覚悟を悟った。そして、俺もまた、カゲの信頼に、誠実さで応えるべきだと感じた。
「カゲ。俺も、君に話しておかなければならないことがある。……俺は、この世界の人間じゃない」
俺の言葉に、カゲの肩が、微かに震えた。
「俺は、君たちが天を仰いでも見ることのできない、遥か遠い、別の世界から、ここにやって来た。事故でな。だから、この世界の常識も、神々の教えも、俺にはよく分からない。ただ、俺が信じている『理』に従って、生きているだけだ」
ある程度の予測はしていたのだろう。カゲは、驚きながらも、どこか腑に落ちたような表情を見せた。俺の持つ異質な知識、理解不能な技術。その全てのピースが、彼女の中で、一つに繋がったのかもしれない。
彼女は、しばらく黙り込んだ後、意を決したように、俺に向き直った。
「カガヤ……様。私は……」
そう言うと、カゲは、ゆっくりと、自らの顔を覆っていたフードに手をかけた。
フードが外された瞬間、カゲの周囲を覆っていた、微かな空間の歪みのようなものが、霧が晴れるように消え去った。
そこにいたのは、俺が知る「カゲ」ではなかった。
月明かりの下に晒されたその顔は、少年のような短い黒髪に反して、驚くほど整った、涼やかな目元を持つ少女のものだった。これまで聞いていた、低く、感情の乗らない声ではない。本来の声は、鈴が鳴るような、透き通った響きを持っていた。
「……女、だったのか……」
俺の呆然とした呟きに、目の前の少女は、初めて、はにかむように頬を染めた。
《マスター。対象の生体情報は、当初より女性であることを示していました。報告義務のある項目ではなかったため、未報告でした》
(先に言え!)
俺は、アイへの内心のツッコミを、ぐっと飲み込んだ。
少女は、俺の驚きには構わず、続けた。その瞳には、涙が滲んでいる。
「私には、名がありません。『影』として生き、任務を終えれば、消えるだけの、ただの道具でした。ですが……あなたと共にいると、生きてみたい、と。そう、願ってしまうのです。これまでの人生とは違う、一人の人間としての、人生を」
彼女は、俺の目を真っ直ぐに見つめ、祈るように言った。
「もし、許されるのなら、これからも、あなたの隣に……。ですから……どうか、私に、新しい名を、くださいませんか……?」
涙ながらに願う彼女の姿に、俺は、言葉を失った。名を与える。それは、彼女のこれまでの人生そのものを、俺が定義するということだ。その責任の重さに、俺は一瞬、躊躇した。
(だが、俺が彼女を、この世界に繋ぎ止める、唯一の『錨』になれるのなら……)
俺は、心の中で、第二王子にだけは、そっと詫びた。(王子、あんたが託してくれた信頼を、俺は少しだけ、自分のために使う。悪いな……)
「……分かった」
俺は、彼女の震える肩に、そっと手を置いた。
「君に、新しい名前を贈ろう……。『刹那』。セツナというのはどうだ?」
「……せつ、な……?」
「ああ。俺の故郷の思想の中で、人間の認識領域を超えた一瞬の間のことを意味する言葉だ。影として生きた、永い夜はもう終わりだ。これからは、一瞬一瞬を、お前自身の人生として、大切に生きてほしい。そういう願いを込めて」
俺の言葉に、彼女――セツナの瞳から、大粒の涙が、止めどなく溢れ出した。それは、悲しみの涙ではない。影として死に、一人の人間「セツナ」として、新しく生まれた、産声の涙だった。
「はい……! カガヤ、様……!」
彼女は、子供のようにしゃくりあげながら、何度も、何度も、頷いた。
その顔には、俺が初めて見る、心の底からの、本物の笑顔が咲いていた。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!
「☆☆☆☆☆」からの評価やブックマークをしていただけると、今後の創作の大きな励みになります。
感想やレビューも、心からお待ちしています!




