第120話:賢者の薬、商人の売り方
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「カガヤ工房」の浄水事業は、シエルのスラム街に、静かだが確実な革命をもたらした。銅貨一枚で手に入る「安全な水」は、人々のささやかな日常を病のリスクから守り、俺たちに最初の「信用」と、次なる一手を打つためのわずかな「資金」をもたらしてくれた。工房は、忘れられた民のギドたちが運営する製造ラインと、カゲが統括する効率的な販売・管理システムによって、驚くほど安定した収益を上げ始めていた。
だが、俺の本当の狙いは、水ビジネスの成功ではない。これは、シエルという巨大な市場の反応を見るための、観測気球に過ぎなかった。俺がこの混沌の都市で成し遂げたいのは、既存の価値観を根底から覆す、全く新しい市場の創造だ。
そのための切り札となる第二の商品開発に、俺は工房の奥で没頭していた。
〈アイ。この世界の薬草、『太陽草』の有効成分の分子構造を解析。カタリストでエーテル分解し、疲労回復に寄与する配糖体のみを抽出。同時に、必須アミノ酸とブドウ糖を合成し、純水と混合。生体への吸収率を最大化するための、最適なイオンバランスは?〉
《マスター。ナトリウムイオンとカリウムイオンの比率を3:1に調整することを推奨します。これにより、腸内での能動輸送が活性化され、吸収効率が17%向上します》
俺が開発していたのは、革新的な栄養補助飲料だった。この世界のポーションが、魔力を用いて傷を「塞ぐ」という対症療法であるのに対し、俺の飲料は、科学的アプローチで、生命活動の根幹である細胞そのものを「活性化」させる。
カタリストを使い、疲労回復効果のある薬草から有効成分だけを分子レベルで抽出。さらに、周囲の魔素をエネルギー源として、人体に不可欠なアミノ酸や糖質といった栄養素を直接合成する。それらを、不純物を一切含まない純水に溶かし込む。魔法でも錬金術でもない、俺の持つ「理術」――すなわち、宇宙レベルの生化学と物質科学の結晶だ。まぁ、ただの、ちょっと性能が高い栄養ドリンクとも言うが……。
ボトルに詰められた琥珀色の液体は、それ自体が微かな光を放っているように見えた。
「さて、問題はネーミングだな……」
俺は、完成した試作品を手に、唸った。
《マスター。ラテン語で「生命の水」を意味する『Aqua Vitae』、あるいは「生命の霊薬」を意味する『Elixir Vitae』はいかがでしょう。この世界の言語体系には存在しない、異国情緒と神秘性を演出できます》
「……『アクア・ヴィータ』。悪くない。気に入った」
こうして、俺たちの次なる商品、「アクア・ヴィータ」は完成した。俺は、これを「薬」ではなく、あくまで「食品(清涼飲料水)」として売り出す計画だった。薬師ギルドや錬金術ギルドが持つ、複雑な許認可の網を、合法的にすり抜けるための、商人としての戦略だ。
◇
「いいかい、みんな。今度の商品は、水よりもっとすごいよ!」
工房の前に孤児たちを集め、リコが檄を飛ばしていた。彼女の目には、新しいビジネスへの期待と、リーダーとしての自信が満ち溢れている。
「これは、飲むだけで疲れが吹っ飛ぶ、魔法の飲み物さ! まずは、港で働く荷役人たちや、徹夜で炉を動かす鍛冶職人たちに、タダで配って、その効果を体験させるんだ! いいね!?」
「「「おおーっ!」」」
リコの号令に、孤児たちが一斉に歓声を上げる。彼らにとって、これはもはや単なる日銭稼ぎではない。自分たちの力で、この街に新しい価値を広めていくという、誇らしい「仕事」なのだ。
彼らの口コミ戦略は、またしても絶大な効果を発揮した。
「おい、聞いたか? カガヤ工房の新しい飲み物、マジでヤバいぞ」
「ああ、アクア・ヴィータとか言ったか。あれを一本飲んだら、徹夜明けでももう一仕事できたぜ!」
「病み上がりのオフクロに飲ませたら、次の日から顔色が良くなってな……。涙が出たよ」
「お前も飲んでみろよ。マジで飛ぶぞ?!」
噂は、スラム街から職人街、そして港湾地区へと、燎原の火のごとく広がっていく。アクア・ヴィータは、高価な回復ポーションを買えない労働者階級にとって、まさに救世主のような存在となった。彼らは、銅貨数枚で「明日の活力」が手に入るという、これまで知らなかった「選択肢」を、初めて手にしたのだ。
当然、その噂は、既得権益を持つ者たちの耳にも届いていた。
自由交易都市シエル、錬金術ギルド。その薄暗い一室で、ギルド長であるザルムは、苦々しい表情で配下からの報告を聞いていた。
「……つまり、そのカガヤとかいう新参者が、我らのポーション市場を、下から切り崩している、と。しかも、『食品』だと偽り、ギルドの規制を逃れている、と。……ふざけた真似を」
ザルムは、代々このシエルのポーション市場を牛耳ってきた名家の当主だ。彼のプライドは、どこの馬の骨とも知れない異邦人に、自らのシマを荒らされることを、何よりも嫌った。
「衛兵に手を回せ。孤児を不当に使役し、得体の知れない飲み物を売りさばいている、と。風紀を乱した罪で、しょっ引いてしまえ。子供相手なら、多少手荒な真似をしても、文句は出まい」
彼の冷たい命令が、シエルの闇に放たれた。
◇
その数日後、事件は起きた。
シエルの市場の一角で、リコとレオたちがアクア・ヴィータを販売していると、シエルの衛兵たちが、物々しい雰囲気で彼らを取り囲んだ。
「お前たちか。許可なく、怪しげな飲み物を売りさばいているというガキどもは」
隊長らしき男が、威圧的に言い放つ。
「怪しいとは何さ! これは、ちゃんとカガヤ工房で作ってる、ちゃんとした商品だよ!」
リコは、一歩も引かずに言い返した。だが、相手は聞く耳を持たない。
「うるさい! 孤児が売るようなものに、碌なものがあるか!その商品を、全て没収する!」
衛兵たちが、商品を強引に奪おうと手を伸ばす。レオや他の子供たちが、必死に抵抗するが、大人の力には敵わない。リコの勝ち気な瞳に、初めて悔し涙が滲んだ。
「――そこまでにしてもらおうか」
俺は、野次馬でできた人垣をかき分け、リコたちの前に立った。隣には、いつの間にかカゲが音もなく佇み、その存在感を完全に消している。
「カガヤ……!」
リコが、安堵の声を上げる。
俺は衛兵の隊長にゆっくりと歩み寄った。その視線の先、数メートル離れた路地の物陰に、見慣れない豪奢な服を着た男が、腕を組んでこちらの様子を窺っているのを、俺は見逃さなかった。錬金術ギルドの人間だろう。
「衛兵隊長殿。これは、一体何の騒ぎですかな? 私の商品と、私の『従業員』に、何か法に触れることでも?」
俺はあえて、その物陰の男にも聞こえるように、静かな、しかしよく通る声で言った。
「き、貴様が工房の主か! 子供を使い、得体の知れないものを売りさばくとは、何事だ!しかも、薬品販売の許可は取っているのか!シエルの風紀を乱す悪党め!」
「お言葉ですが」
俺は、隊長の言葉を遮った。
「風紀を乱しているのは、一体どちらでしょうか。私の従業員たちは、労働の対価として正当な報酬を得て、自らの力で生きています。それを力で脅し、商品を奪おうとするあなた方の行為こそ、このシエルの自由な気風を乱す、野蛮な行いではありませんか?それに、このアクア・ヴィータは、シエルの法が定める『薬品』には該当しません。薬草は使用していますが、その含有率は、法で定められた基準値以下。これは、あくまで『食品』に分類される、ただの『清涼飲料水』です。薬品の取り締まりは衛兵の仕事かもしれませんが、食品の販売に口を出すのは、越権行為ではないですか?」
俺の、法に基づいた冷静な指摘に、衛兵隊長は言葉に詰まった。周囲を取り囲んでいた野次馬たちも、ざわめき始める。
「そうだ、あれを飲んで助かった奴が大勢いるぞ!」
「衛兵は、ギルドの言いなりか!」
民衆の支持は、明らかに俺たちにあった。
「……ぐ、詭弁を弄するな!」
隊長は苦しまぎれに叫んだ。俺は、物陰の男に視線を送り、嘲るように、そして彼にだけ聞こえるような絶妙な声量で、こう続けた。
「隊長殿。あなた方が今していることは、賢明な判断とは思えませんな。この騒ぎで、あなた方の評判、ひいてはあなた方に指示を出した『どなたか』の面子は丸潰れになる。民衆の信頼を失った権威が、どうなるか……。あなたほどの男なら、お分かりでしょう?」
俺は、そこで一度、言葉を切った。そして、悪魔のような笑みを浮かべて、こう続けた。
「……あるいは、こういう考え方もあります。この騒ぎを、私と、あなた方の『ご主人様』が、新たな『取引』を始める良い機会だと捉えるのはいかがですかな? 私のこの新商品を、あなた方の流通網に乗せる。互いにとって、大きな利益になると思うのですがね。……さて、敵対して評判を落とすか、手を組んで利益を上げるか。どちらが、より『儲かる』話か……。賢明なあなたなら、お分かりのはずだ」
俺の言葉は、衛兵隊長だけでなく、物陰で聞き耳を立てていたギルドの男の矜持を根底から揺さぶり、同時に、商人としての欲望をも刺激したはずだ。
隊長は、唇を噛み締め、怒りと屈辱に顔を歪ませながらも、やがて、絞り出すような声で言った。
「……今日のところは、引き上げてやる」
衛兵たちを促し、彼は逃げるようにその場を去っていった。物陰にいた男の気配も、いつの間にか消えていた。
「「「うおおおおおっ!!」」」
その瞬間、周りを取り囲んでいた民衆から、割れんばかりの歓声が上がった。リコとレオは、目を輝かせながら俺に駆け寄ってくる。
俺は、彼らの頭を優しく撫でながら、静かに、しかし確かな手応えを感じていた。シエルという街で、俺は、また一つ、大きな「信用」を勝ち取ったのだ。だが、これは、まだ始まりに過ぎない。
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