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第119話:スラム街の商人たち

お読みいただき、ありがとうございます。

朝・昼・夕の1日3回の更新を目指しています。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

自由交易都市シエル。その最も淀んだ空気が溜まる場所、スラム街の一角に、俺たちの新たな拠点が産声を上げたのは、あの勝ち気な孤児のリーダー、リコと契約を交わしてから三日後のことだった。


それは、かつては染物工房だったらしい、打ち捨てられた廃墟だった。ギドが率いる「忘れられた民」の屈強な獣人たちが、その腕っぷしで腐った梁を担ぎ出し、壁の穴を塞いでいく。彼らの額には汗が光り、その槌音は、新しい始まりを告げる祝砲のように、スラムの空に力強く響き渡った。


「カガヤ殿。これで雨風は凌げるでしょう」


腕利きのギドの手にかかれば、廃墟同然だった建物も、数日で立派な工房兼住居へと姿を変えた。俺は、その仕事ぶりに感心しながら、工房の中心で、最初の「商品」の最終調整を行っていた。


〈アイ、試作品十七号の分析データは?〉


《マスター。基本構造は、忘れられた民の里で製作した浄化装置と同じです。触媒となる木炭と特殊な砂、そして、この世界の植物繊維をカタリストで分子レベルで編み込んだ『浄水膜』。この組み合わせにより、有害な重金属と病原菌の99.2%を除去可能です》


「上出来だ。これなら、十分に『商品』になる」


シエルの水事情は、劣悪の一言に尽きる。街の中心部では、裕福な商人や貴族が、錬金術ギルドが販売する高価な「清浄のポーション」を買い求め、貧民層は、濁った運河の水を煮沸するだけで、日常的な腹痛や病に苦しんでいた。「安全な水」――それ自体が、この街では一つの「贅沢品」なのだ。


俺の狙いは、その常識を根底から覆すことだった。


「リコ、レオ。集まってくれ。最初の商売を始めるぞ」


俺の声に、工房の片隅で他の孤児たちと獣骨並べに興じていたリコとレオが、目つきを変えてこちらへやってきた。


「あたしたちに、何をさせる気だい?」


リコが、腕を組んで、値踏みするように俺を見る。


「君たちには、この『浄水フィルター』そのものではなく、これで濾過した『綺麗な水』を売ってもらう。スラムの連中が毎日使うもんだ。一個あたりの儲けは少ないが、数を売れば大きな商売になる。薄利多売、ハイボリューム・ビジネスだな」


「はいぼりゅーむ……びじねす? なんだい、そりゃ。呪文かい?」


リコが、聞き慣れない言葉に怪訝な顔で首を傾げる。いけない、つい故郷の言葉が混じってしまった。この世界では、まだ概念すらない言葉も多い。俺は苦笑しながら、分かりやすく言い直した。


「いや、たくさんの客に、たくさん売るってことさ」


俺は、彼女たちに、革製の水袋と、十回分の水を前払いで購入できる木製の札を渡した。サブスクリプション・モデル。この世界にはまだ存在しない、新しい販売方法だ。


「面白いじゃないか。やってやるよ」


リコは、その仕組みを瞬時に理解すると、不敵な笑みを浮かべた。彼女は、金儲けの匂いを嗅ぎ分ける、天性の嗅覚を持っている。


こうして、俺たちの最初の事業、「カガヤ工房の綺麗なお水屋さん」が始まった。


結果は、俺の想像を遥かに超えていた。


「おい、聞いたか? 最近出回り始めた水、腹を壊さねえらしいぞ!」


「ああ、水袋一杯で銅貨一枚だろ? ポーション買うより、よっぽど安上がりだ!」


リコと孤児たちが売り歩く「綺麗な水」は、スラムの住民たちの間で、瞬く間に評判となった。工房の前には、朝から空の水袋を持った人々が長蛇の列を作り、子供たちの威勢のいい声が、工房に活気をもたらした。


だが、その成功の裏で、問題もまた、山積みだった。


「レオ! あんた、また西の婆さんの家に届け忘れたのかい!」


「だって、リコ! 東の路地で、別のガキどもに絡まれて……!」


「こら! 釣り銭をごまかすんじゃないよ!」


子供たちの販売網は、エネルギーには満ちているが、あまりにも非効率で、混沌としていた。配達ルートは行き当たりばったり、売上の計算はどんぶり勘定。在庫管理など、存在しないに等しい。俺は、頭を抱えた。これは、早急に改善しなければ、いずれ破綻する。


その様子を、工房の隅から、一つの影が、静かに、そして冷徹に観察していた。


カゲだった。


俺の護衛として、常に工房の片隅に立ち、ただ黙って、子供たちの喧騒を眺めているだけだった。その瞳に、何の感情も浮かんでいないように、俺には見えた。


変化が起きたのは、事業を始めて五日目のことだった。


二人の孤児が、配達ルートを巡って、掴み合いの普通の喧嘩を始めたのだ。


「こっちの道の方が近いだろ!」


「馬鹿言え! あそこは『カワード』の連中が見張ってるんだぞ!」


その、あまりにも非効率な口論に、ついに我慢の限界が来たのだろう。それまで石像のように動かなかったカゲが、すっ、と二人の間に割って入った。


「……どちらも、三流だ」


低い、感情の乗らないカゲの声が、呟くように響く。子供たちは、そのただならぬ気配に、一瞬で黙り込んだ。


カゲは、無言で地面に落ちていた木の枝を拾うと、土の上に、驚くほど正確なスラム街の地図を描き始めた。


「この区画への最短ルートは、ここだ。市場の喧騒に紛れ、屋根の上を伝い、水路の脇を抜ける。監視の目も、物理的な障害も、最も少ない。所要時間、七脈。お前たちの言うルートより、五脈は短縮できる」


カゲは、淡々と、しかし淀みなく、配達先の顧客密度、時間帯による人通りの変化、そして敵対勢力の巡回パターンまでを考慮に入れた、完璧な最適化ルートを提示してみせた。それは、もはや商売のやり方ではない。敵地に潜入し、目標を完遂するための、暗殺者の思考そのものだった。


子供たちは、ただ呆然と、その描く地図を見つめている。俺もまた、その光景に、言葉を失っていた。戦闘能力だけではない。この人物は、極めて高度な情報処理能力と、状況を最適化するための、理的な思考能力を兼ね備えている。これは、ただの護衛に留めておくには、あまりにも惜しい才能だ。


その日の午後、小さな事件が起きた。


孤児たちの中でも、一番幼い、ミーナという名の少女が、二つの水の入った革袋を運ぶのに、四苦八苦していた。ふらついた彼女が、石畳につまずき、転びそうになった、その瞬間。


それまで工房の影にいたはずのカゲの姿が、一瞬でミーナの隣に移動していた。


カゲは、倒れ込むミーナの体を支えると、その小さな手から革袋を取り上げた。そして、子供の目線まで屈むと、こう言った。


「……こうだ。腕の力だけで持つな。腰を落とし、体全体の重心で、重さを支える」


カゲは、自ら手本を示すように、軽々と革袋を持ち上げてみせる。その動きには、一切の無駄がない。


ミーナは、ぽかんとした顔でカゲを見上げていたが、やがて、その小さな顔に、満面の笑みが広がった。


「わあ……! ありがとう!」


そして、彼女は、お礼にと、ポケットから取り出した、少しだけ欠けて、薄汚れた飴玉を、カゲの手に握らせた。


「……これ」


カゲは、自分の手のひらにある、その小さな贈り物を見つめたまま、固まっていた。その人生で、誰かから、何かを与えられた経験など、一度もなかったのだろう。任務の報酬以外、何一つ。


ミーナは、そんなカゲの様子を気ににもせず、「じゃあね!」と元気に駆け出していった。


後に残されたカゲは、ただ、その飴玉を、壊れ物を扱うかのように、じっと見つめている。やがて、そのいつもは表情の変わらない口元が、ほんの僅かに、本当に、ほんの僅かに、持ち上がった。


それは、笑顔と呼ぶには、あまりにもささやかで、ぎこちない表情の変化だった。だが、俺は、確かに見た。感情を殺し、影として生きてきたカゲが、初めて見せた、人間らしい微笑みを。その表情に、俺の心臓が、ドクン、と大きく脈打った。


その夜、工房の仕事が終わり、子供たちが寝静まった後。俺は、一人、帳簿と睨めっこをしているカゲに、声をかけた。


「カゲ。君の才能は、護衛だけではもったいない」


カゲは、顔を上げ、不思議そうな目で俺を見る。


「君に、この工房の運営を、本格的に任せたい。仕入れ、在庫管理、そして売上の計算。物流管理に関わる、全てをだ」


俺の言葉に、カゲの目が、わずかに見開かれた。


「……しかし、私は、人を殺めることしか知らない」


「いいや。君は、物事を最も効率的に解決する方法を知っている。それは、どんな商人にとっても、喉から手が出るほど欲しい才能だ。俺は、商人だ。価値あるものには、正当な投資をする。……君は、俺にとって、最高の『投資対象』だ」


俺は、新しい帳簿と、一本のインクペンを、カゲの前に置いた。


カゲは、帳簿と、俺の顔を、交互に見つめた。そして、遠くで聞こえる、子供たちの穏やかな寝息に、耳を澄ませる。


やがて、カゲは、ゆっくりと、しかし確かな手つきで、そのペンを握った。


それは、カゲが、「影」としてではない、一人の人間としての、新しい役割を、自らの意志で受け入れた、最初の瞬間だった。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!

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