第118話:混沌の市場と出会い
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マラハとの死闘を終え、俺たちはバルトランのキャラバンと、そしてギド率いる「忘れられた民」の一団と共に、ついに自由交易都市シエルの巨大な門をくぐった。
その瞬間、俺の五感は、情報の洪水に飲み込まれた。
「――すごいな、これは……」
思わず漏れた俺の呟きに、隣を歩くカゲも、フードの奥で僅かに息を呑んだ気配があった。
城壁の内側に広がっていたのは、もはや「街」という言葉では表現しきれない、生命力と欲望の巨大な坩堝だった。天を突くように不規則に伸びる石と鉄の建造物。その間を、人、獣人、エルフ、ドワーフと思しき小柄な種族までが、まるで濁流のように行き交っている。様々な言語が入り混じった喧騒、香辛料と汗と得体の知れない料理の匂い、そして、どこかから聞こえてくる、ガレリア帝国製の蒸気機関が立てるリズミカルな駆動音。
その全てが渾然一体となり、圧倒的なエネルギーとなって俺に迫ってくる。
《マスター。人口密度、エネルギー流動量、情報交通量、その全てが王都アウレリアの数倍を記録しています。これは、極めて非効率的でありながら、同時に、極めて強靭な自己増殖型のエコシステムを形成しています。興味深い……》
アイの分析は、まさに俺が感じていたことを、的確に言語化していた。ここは、生命の進化の実験場のような場所だ。あらゆるものが許容され、その中で最も強く、最も狡猾なものだけが生き残り、繁栄する。商人にとって、これほど刺激的な市場はないだろう。
しかし、その高揚感は、すぐにシエルという街の冷徹な現実に打ち砕かれた。
「申し訳ありません、カガヤ殿。わしの顔馴染みの宿も、全て満室でしてな。長期滞在となると、どうにも……」
俺たちの拠点を探して奔走してくれたバルトランが、申し訳なさそうに頭を掻いた。俺たちは、彼が手配してくれた、馬小屋より少しマシという程度の安宿に、一時的に身を寄せていた。
「いや、気にしないでください、バルトランさん。あなたには、ここまで世話になっただけで、十分すぎるほどの借りがある」
「そう言っていただけると、ありがたいが……」
問題は、宿だけではなかった。事業を始めるための店舗兼工房を探そうにも、シエルの不動産ブローカーたちは、俺たちを見るなり、丁寧な、しかし有無を言わせぬ態度で、こう告げるのだ。
「お客様。大変申し訳ありませんが、当方では、五大ギルドのいずれかからの紹介状、あるいは、このシエルで十年以上の商歴を持つ方からの保証がない限り、物件の賃貸契約は結べないことになっておりまして」
「金ならある。相場の倍を払ってもいい」
忘れられた民のリーダーであるギドが、俺が里で手に入れた鉱石の価値を説いても、ブローカーは首を横に振るだけだった。
「お客様、ここはシエルです。金だけでは『真の信用』は得られない。それが、この街の唯一の掟でございます」
信用。バルトランも言っていた、この街を支配する見えざる通貨。今の俺たちには、それが決定的に欠けていた。王都での実績も、第二王子の庇護も、この混沌の自由都市では、何の意味も持たない。俺たちは、スタートラインにさえ立てていないのだ。
その夜、薄暗い安宿の一室で、俺は今後の戦略を練り直していた。
〈アイ。五大ギルド……『商業ギルド』『錬金術ギルド』『傭兵ギルド』『職人ギルド』そして『盗賊ギルド』。そのいずれかの歓心を買うのが、定石か?〉
《マスター。いずれのギルドも、強固な既得権益を保持しています。新参者であるマスターが、彼らの市場に参入しようとすれば、必ずや激しい抵抗に遭うでしょう。成功確率は、極めて低いと予測します》
〈だろうな。大企業が支配する市場に、ベンチャーが挑むようなものか。……ならば、やり方を変えるしかない〉
俺は、シエルの地図をテーブルに広げた。
正面からぶつかって勝てないなら、彼らのルールが通用しない場所で、新しいゲームを始める。
〈……アイ、この街で、五大ギルドの支配が、最も及んでいない場所はどこだ?〉
《検索します……。該当エリアを特定。北西区画、通称『スラム街』です。ただし、マスター。当該エリアの治安レベルは、シエルの中でも最低です。危険が伴います》
「危険と機会は、常に隣り合わせだ。それに、最高の市場は、いつだって、未開拓な場所に眠っているものさ」
翌日、俺はカゲとギドだけを連れ、スラム街へと足を踏み入れた。そこは、街の中心部の華やかさとは、まるで別世界だった。入り組んだ路地、崩れかけた建物、そして、淀んだ空気。だが、そこに住む人々の目には、絶望だけではない、したたかな生命力が宿っていた。
俺たちが、スラムの市場を注意深く観察していた時だった。一つの騒ぎが、俺の目に留まった。
「どきやがれ、クソガキ! 今日のショバ代、まだ払ってねえだろうが!」
いかにも柄の悪い、大柄なゴロツキが、小さな露店でパンを売る老婆に絡んでいる。その前に、数人の子供たちが、まるで親鳥を守る雛のように、立ちはだかっていた。
その中心にいたのは、年の頃は十歳そこそこだろうか、短い黒髪を無造作に切り揃えた、勝ち気な目つきの少女だった。彼女の隣には、少し年上に見える、体格の良い少年が、腕を組んでゴロツキを睨みつけている。
「何の騒ぎだ?」
俺がギドに尋ねると、彼は顔をしかめた。
「あれは、この辺りを仕切るチンピラですな。『カワード』と呼ばれている者たちです。弱い者からショバ代を巻き上げるのが、奴らの仕事です」
「なるほどな。」
ゴロツキが、少女の胸ぐらを掴もうと手を伸ばす。その瞬間、少女は、全く怯むことなく、むしろ嘲るように言った。
「あら、『カワード』のリーダーさん。あんた、昨日、南の賭場で大負けしたそうじゃない。うちのショバ代なんかで、その穴埋め、できるのかしら?」
「なっ……!?」
ゴロツキの動きが、ピタリと止まった。図星を指されたのだろう、その顔が怒りに赤く染まる。
「それに、あんたの親分、あんたが弱い者から小銭を巻き上げてること、知ったらなんて言うかねぇ? 『俺のシマで、みみっちい真似しやがて』って、怒られるんじゃない?」
少女の言葉は、ただのハッタリではなかった。彼女は、このスラムの力関係、人間関係、そして情報の流れを、完全に把握している。彼女は、暴力ではなく、情報と、相手の心理の隙を突くことで、自分より遥かに大きな相手を、手玉に取っているのだ。
ゴロツキは、忌々しげに舌打ちをすると、「覚えてやがれ!」という陳腐な捨て台詞を残して、その場を去っていった。
「……面白い」
俺は、思わず呟いていた。あの少女は、ただの孤児ではない。彼女は、このスラムという名の市場を生き抜く、天性の「商人」だ。
俺は、少女と、その隣に立つ少年の前に、ゆっくりと歩み寄った。
「よう。なかなか見事な交渉術だったな」
俺の言葉に、少女は警戒心を剥き出しにして、こちらを睨みつけた。
「あんた、誰? 見かけない顔だけど。」
「俺はカガヤ。しがない商人さ。……あんたに、一つ、商談を持ち掛けたいんだが」
「商談って何よ。あんたみたいな、小綺麗な格好した奴に用はないんだけど」
俺は、懐から小さな水筒を取り出した。
「これが、あんたとの最初の取引材料だ。まずは、ちょっとでいいから飲んでみてくれよ。」
俺が水筒を差し出すと、少女は鼻で笑った。
「ふん。見ず知らずの男が差し出すものを、素直に飲むほど、あたしはお人好しじゃないよ。毒でも入ってたらどうするんだい?」
その言葉は、このスラムで生き抜いてきた彼女のしたたかさを物語っていた。俺は、その反応を予測していたかのように、静かに水筒の蓋を開け、自ら一口飲んでみせた。
「ただの水だ。……まあ、あんたたちが普段口にしているものより、ほんの少しだけ『綺麗』だがな」
俺が平然としているのを見て、少女は隣に立つ少年に目配せした。少年は無言で頷くと、俺から水筒を受け取り、まずは用心深く匂いを嗅ぎ、次にほんの少しだけ舌先で嘗めるようにして味を確かめる。彼の鋭い目が、俺の表情に変化がないかを探っている。やがて、彼も一口だけ、その水を口に含んだ。
彼の無表情が、初めて、わずかに驚きに揺らいだ。
「……リコ。毒は、ない。それに、これ……」
少年が言葉に詰まるのを見て、リコと呼ばれた少女はついに、自ら水筒をひったくるように受け取った。そして、疑いの目を俺に向けたまま、覚悟を決めたように、その水を一口だけ、口に含んだ。
次の瞬間、彼女の勝ち気な目が、これまでにないほど大きく見開かれた。
「……なに、これ……。水、なのに……匂いも味も、ない? それに、体が……霧が晴れるように、軽い……」
スラムのぬるま湯のような、鉄臭い水しか知らない彼女にとって、不純物を一切含まない純粋な水は、理解不能な、未知の飲み物だった。
「俺は、これよりもっとすごいものを作れる。だが、俺には、この街のことが分からない。信用もない」
俺は、彼女の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「だから、あんたと取引がしたい。俺は、あんたたちに『商品』と『仕事』を提供する。その代わり、あんたたちには、このスラムで生き抜くための『情報』と、商品を売るための『販売網』になってほしい。これは、施しじゃない。対等な、共同事業者としての、最初の契約だ」
リコは、しばらく黙って、俺の顔をじっと見つめていた。その瞳の中で、打算と、好奇心と、そしてほんの少しの期待が、激しくせめぎ合っているのが分かった。
やがて、彼女は、ニヤリと、大人びた笑みを浮かべた。
「……面白いじゃないか、その話。乗ってやろう。だが、もしこっちを騙すような真似をしたら、あんた、この街じゃ生きていけないよ。あたしたちのやり方で、きっちり落とし前はつけさしてもらうからね」
勝ち気な少女が差し出した小さな手を、俺は、力強く握り返した。
自由交易都市シエル。その最も淀んだ場所で、俺の、そして俺たちの、本当の商売が、今、静かに幕を開けた。
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