第116話:忘れられた民の里
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地揺らしの衝角羊との一件は、俺とカゲ、そしてキャラバンとの関係を劇的に変えた。俺の「理術」は、傭兵たちから畏怖の対象となり、商人バルトランからは絶対的な信用の証となった。そして何より、寡黙な斥候カゲとの間にあった氷の壁は、あの夜の焚き火を境に、静かに溶け始めていた。言葉は少ないままだが、互いの背中を預けることに、もはや躊躇いはない。そんな確かな手応えが、俺たちの間に生まれていた。
旅が始まって十日が過ぎた頃、俺たちはフォルトゥナ王国の南東辺境領を抜け、いよいよシエルへと続く最後の難所、通称「嘆きの連峰」に差し掛かっていた。
「ここを抜ければ、シエルはもう目と鼻の先だ。だが、この山道が一番の厄介でな」
バルトランが、険しい山肌を見上げながら言った。
「街道をまっすぐ進むより、五日は早く着く。だが、道は険しく、天候も変わりやすい。それに、この山には、街道筋とは質の違う、狡猾な魔獣が巣食っている。迂回するのが賢明だと、多くの商人は言う。……だが、カガヤ殿。あんたなら、どうする?」
彼の目は、俺を試しているようだった。商人として、リスクとリターンをどう判断するのか、と。
〈アイ、どう思う?〉
俺は、バルトランに即答せず、脳内でアイに問いかけた。
《マスター。この山脈……『嘆きの連峰』の地質データと、キャラバン内のエルフの商人が話していた伝承を照合しました。この山中には、極めて安定性の高い『月長石』と呼ばれる希少鉱物が存在する可能性があります》
〈月長石……?〉
《魔素からのにエネルギー変換効率が非常に優秀な触媒です。それを新たな触媒として精製できれば、マスターの理術の出力は安定し、むしろ向上するでしょう。現在不調である携帯型リアクター『カタリスト』の修復も可能となります》
迂回すれば安全だが、得られるものはない。だが、この山道を進めば、俺自身の力を増強する、またとない機会が眠っている。リスクは高い。だが、リターンは、単なる時間短縮ではない。俺がこの世界で生き抜くための、力そのものだ。
「バルトランさん。俺ならこの山道を行くな」
俺は、決意を込めて言った。
「この山には、俺の『商売道具』の性能を上げるために不可欠な、特別な鉱石が眠っているらしいんだ。正直なところ、このままでは、いざという時に護衛としての役目を果たせなくなる可能性がある」
俺の言葉に、バルトランは満足げに、ニヤリと笑った。
しかし、その賭けは、早々に裏目に出た。山道に足を踏み入れて二日目、俺たちを、この土地の洗礼が襲った。天候の急変だ。それまで晴れ渡っていた空は、突如として黒い雲に覆われ、鉄砲水のような豪雨が、牙を剥いてキャラバンに襲いかかったのだ。
「クソっ! 道が……!」
傭兵の一人が叫ぶ。濁流と化した雨水が、もろい山肌をえぐり取り、道が崩落していく。バランスを崩した荷馬車の一台が、悲鳴と共に谷底へと滑り落ちていった。
「カガヤ殿! 無事か!」
バルトランの叫び声が、雨音に掻き消される。俺とカゲが乗る荷馬車は、運悪く本隊から切り離される形で、別の脇道へと押し流されてしまっていた。
〈アイ、本隊との合流は可能か!?〉
《不可能と判断します。土砂崩れにより、元のルートは完全に寸断されました。新たなルートを再検索しますが、この豪雨では、周辺の地形データが信用できません》
最悪の状況だった。俺とカゲは、未知の山中で、完全に孤立したのだ。
◇
それから二日間、俺たちはあてどなく山中を彷徨った。雨は上がったが、道はぬかるみ、荷馬車の車輪は何度も泥に捕らわれた。水と食料は、カゲが調達してくれた野生動物や山菜で何とか凌いでいたが、それもいつまで続くか分からなかった。
「……すまない、カゲ。俺が近道を選んだせいで……」
「任務を遂行するだけだ」
彼は、短く、しかし責めるような響きもなく、そう答えた。その変わらない態度が、逆に俺の心を落ち着かせてくれた。
三日目の昼過ぎ。俺たちが、霧の立ち込める谷間を慎重に進んでいた時だった。
「……待て」
カゲが、鋭く俺を制した。彼の視線の先、霧の向こうに、微かに、何かの明かりが見える。それは、自然の光ではない。人の営みを示す、温かい灯火のようだった。
《マスター。前方約三百メートル。複数の人工的な建造物と、生命反応を検知。データベースに存在しない、未確認の集落です》
俺たちは、息を殺してその光へと近づいた。やがて霧が晴れ、その全貌が明らかになる。
そこにあったのは、巨大な樹々の洞や、岩肌をくり抜いて作られた、自然と完全に一体化した、静かな隠れ里だった。質素だが美しい家々。段々畑で働く、穏やかな表情の村人たち。そして、彼らの姿を見て、俺は息を呑んだ。
彼らは、山羊のような螺旋状の角と、しなやかな尾を持つ、獣人だった。
俺たちの存在に気づいた村人たちが、警戒の声を上げ、手に手に農具や粗末な槍を構える。その中にあって、一人の老婆が、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。その深く刻まれた皺と、全てを見透かすような静かな瞳は、彼女がこの里の長であることを物語っていた。
「……旅のお方。道に迷われたか」
老婆の声は、古木の幹が擦れ合うような、深い響きを持っていた。
「我らは、争いを好まぬ民。どうか、武器を収めていただきたい。危害を加えるつもりがないのなら、客人としてもてなそう」
俺たちは、彼女の言葉に従い、武器を収めた。
里に招き入れられた俺たちは、手厚いもてなしを受けた。彼らは、フォルトゥナ王国にも、ローディア騎士王国にも属さず、数千年前からこの山中で、独自の文化と歴史を守り続けてきた「忘れられた民」だという。
「あんたたちのことは、長老から聞いている。……『星の旅人』と、その『影』」
俺たちに食事を運んできた、一人の若い獣人が、そう言って悪戯っぽく笑った。その言葉に、俺は動揺を隠せない。
「なぜ、それを……」
「長老は、時々、先のことを『視る』のさ。あんたたちがここに来ることも、あんたたちが、この里が長年苦しんできた『呪い』を解く鍵になるかもしれないってこともな」
呪い。彼が言うには、この里では、原因不明の風土病が蔓延しているという。それは、命を奪うほどではないが、徐々に体を蝕み、気力を奪っていく、緩やかな死の病だった。
俺は、アイに指示して、彼らの飲み水と、病に苦しむ村人の血液サンプル(もちろん、本人の許可を得て、だ)を極秘裏に分析させた。
《……マスター。判明しました。この風土病の原因は、この地域の水脈に微量に含まれる、特殊な重金属鉱物です。長期的に摂取することで、体内の魔素循環を阻害し、慢性的なエネルギー欠乏を引き起こしています》
「治せるか?」
《はい。マスターの触媒を用いれば、特定の周波数でこの重金属を中和する、キレート剤の生成が可能です。ただし、完全な治療には、里の水源そのものを浄化する必要があります》
俺は、里の長老に、その事実を告げた。もちろん、「理術」という言葉を使って。
「あなたの言う通りだ、旅人よ」長老は、静かに頷いた。
「我らも、この山の恵みである水が、同時に我らを蝕んでいることには、薄々気づいていた。だが、この水を捨てては、我らは生きてはいけない。浄化の術も知らぬ」
俺は、一つの提案をした。
「俺が、この水を浄化する『濾過装置』を作りましょう。その代わり、この里でしか採れないという、ある鉱石を譲っていただけないか。……病の原因となっている、あの重金属の原石です」
長老は、俺の目を見つめ、静かに問うた。
「なぜ、呪いの元凶であるあの石を欲する?」
「あれは、呪いであると同時に、祝福でもあるからです。不純物を取り除き、正しく精錬すれば、あれは、俺の触媒の性能を飛躍的に高める、最高の素材になる。……どんなものにも、二つの側面がある。光と影、薬と毒。大事なのは、その理を理解し、正しく使うことです」
俺の言葉に、長老は、初めて、その口元に深い笑みを刻んだ。
「……面白い。神々の時代の言葉を、外の者から聞くことになろうとはな。よかろう、旅人よ。その契約、結ばせてもらおう」
その夜、俺は長老から、彼らが口伝で伝えてきた、この世界のもう一つの歴史を聞かされた。
それは、正教会の教えとは全く異なる、壮大な物語だった。
空から来た「星の民」が、この大地に「偽りの光」をもたらし、世界の理を歪めたこと。それに魅入られたエルフと、それを妬み、奪おうとした人間たちの、永い争いの歴史。そして、「炎の紋章」とは、その「偽りの光」を信奉し、世界を再び古代の混沌へと戻そうとする者たちの、歪んだ末裔であること。そして、「星の民」がはじめて降り立ったのが、聖地ウルだということ。
「奴らが求める『真の理』の行く先は、破壊じゃ。調和ではない」
長老の言葉は、俺が追い求める謎の、核心に触れるものだった。
数日後、俺が製作した簡易的な浄化システムが稼働を始め、里の水は見事にその輝きを取り戻した。すぐに目に見える変化があったわけではない。だが、浄化された水を飲み始めてさらに数日が経つと、里の空気は明らかに変わり始めた。まず、病に最も弱かった子供たちの咳が減り、夜、安らかに眠れるようになったと、母親たちが安堵の表情で語り合うようになった。長年、気だるさに苦しんでいた老人たちの食欲が、僅かながら戻ってきた。そして一週間も経つ頃には、多くの村人の土気色だった顔に、ゆっくりと、しかし確かな血の気が戻り、その瞳にも生来の活力が宿り始めていた。
俺は、約束通り、一袋の黒く輝く鉱石を受け取った。
それは、俺にとって、触媒を強化させるための素材という側面だけではない。金や宝石よりも価値のある、最初の「商品」であり、商人としての「元手」でもあった。
「旅人よ。シエルへ向かうなら、この道を行くといい」
長老は、山の裏手にある、地図にも載っていない秘密の道を俺たちに教えてくれた。
「感謝します、長老」
「礼を言うのは、我らの方だ。……カガヤ。あんたは、この星の運命を、大きく動かすかもしれぬな」
里の民に見送られ、俺とカゲは、再びシエルへの道を歩き始めた。手にした鉱石の重みが、これからの戦いの重さと、そして商人としての未来への確かな手応えを、俺に伝えていた。
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