第110話:決断の時
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シュトライヒ男爵の城館での死闘から、一夜が明けた。
俺は、王城の一室で、窓から差し込む朝日を浴びながら、自らの無力さを噛み締めていた。身体の傷は、セレスティアの癒しの光と、王家の高名な薬師の手によって、すでに癒えつつある。だが、心の奥底に刻まれた、あの敗北感は、決して消えることはなかった。
辛うじて、生還した。
だが、それは、セレスティアの奇跡と、王子の力によって、またしても「守られた」結果に過ぎなかった。
俺は、カゲの命を危険に晒し、セレスティアに無理をさせ、そして結局は、ゼノンの権力に助けられた。
何一つ、俺自身の力で乗り越えたわけではない。
仮面の男が遺した言葉が、脳裏に響く。
「お前がどこへ行こうと、我らの『目』からは、決して逃れられん」
奴らの言う通りだ。このまま王都に留まり、第二王子の庇護という金の鳥籠の中にいる限り、俺は、そして俺の大切な者たちは、いつか必ず、この巨大な陰謀の渦に飲み込まれてしまうだろう。
守られているだけでは、何も変えられない。攻めに転じるための、自分自身の「城」が必要だ。
俺の胸に、王都を離れる決意が、最後の楔のように、深く、そして固く、打ち込まれた。
その日の午後、俺は第二王子ゼノンの私室を訪れていた。
「……シエルへ、行くと?」
俺の決意を聞いたゼノンは、驚きを隠せない様子で、俺の目をじっと見つめてきた。
「正気か、カガヤ。お前は、我が王家の庇護を捨て、あの混沌の坩堝へと、自ら飛び込むというのか?シエルが、いかなる無法地帯か、知らぬわけではあるまい」
「ええ。承知の上です」
俺は、静かに、しかしきっぱりと答えた。
「殿下。あなたの力は絶大です。ですが、その力でさえ、この国の隅々にまで張り巡らされた、教会や貴族たちの陰謀の網を、完全に払拭することはできていない。私は、昨夜、それを痛感しました。守られているだけでは、何も変えられないのです」
俺は、一度言葉を切り、続けた。
「私は、私自身の力が欲しい。誰の思惑にも左右されず、自らの手で未来を切り拓くための、本当の力が。シエルへ行き、私は商人として、経済力という名の新たな力を手に入れます。それは、いずれ、この国を蝕む本当の敵と戦う時、殿下の最も強力な『剣』となるための力です」
俺の言葉に、ゼノンはしばらく黙り込んでいた。彼は、いずれ玉座を継ぐために現状維持を貫こうとする兄とは違う。改革派である彼は、この国の旧弊な体制の限界を、誰よりも理解しているはずだ。
やがて、彼は深くため息をつくと、諦めたように、しかしどこか楽しそうに笑った。
「……貴殿という男は、本当に、俺の想像を常に超えてくるな。分かった。その決意、確かに受け取った。だが、一人で行かせるわけにはいかん」
彼は、部屋の隅の影に向かって、静かに命じた。
「カゲ。お前は、カガヤと共に行け。彼の剣となり、彼の盾となり、そして、彼の『目』となれ。我が名において命じる」
「……御意に」
影の中から、カゲの低い声が響いた。
王子の、最大限の信頼の証だった。
俺は、彼に向かって、深く頭を下げた。
その夜、俺はセレスティアの元を訪れた。
いつものテラスで、彼女は一人、静かに夜空を見上げていた。俺の気配に気づくと、彼女は、少し寂しげに微笑んだ。
「……もう、行ってしまわれるのですね、コウ」
彼女の瞳には、すでに全てを察しているかのような、静かな光が宿っていた。彼女の「神託」は、俺たちの別れさえも、彼女に見せていたのかもしれない。
「……ああ」
俺は、彼女の隣に立ち、同じように夜空を見上げた。
「俺は、行かなければならない。このまま、ここにいては、俺は君を守れない。それどころか、君を危険に晒し続けるだけだ」
「分かっています」
彼女の声は、震えていなかった。
「コウが、ただ逃げるために、ここを去るのではないことくらい。戦うために、旅立つと言うことも……」
俺は、彼女の強さに、胸を打たれた。
「ああ、力をつけに、行ってくる。商人として、この世界で誰も無視できないほどの力を。そして、必ず、ここへ戻ってくる。今度こそ、お前の隣で、お前の本当の夢を叶える手伝いをするために」
俺の言葉に、彼女は、涙をこらえ、凛とした笑顔で頷いた。
「はい。お待ちしております。ですが、ただ待っているだけではありません」
彼女は、俺の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「私も、戦います。この王都で、聖女として、私にできるやり方で。サルディウス様が人の心の弱さにつけ込むのなら、わたくしは人の心の強さを信じ、それを束ねてみせます。あなたのいない間、リリアンナ様と共に遺跡の研究を続け、教会の中にいる改革派の者たちと連携します。次にあなたがお戻りになる時、私もまた、あなたの隣で戦えるように」
彼女は、ただ守られるだけの少女ではなかった。自らの足で立ち、自らの意志で未来を切り拓こうとする、一人の強い女性だった。
「……ああ。約束だ、セレスティア」
俺たちは、どちらからともなく、互いの手を固く握りしめた。それは、別れの言葉ではなく、再会への、そして共に戦う未来への、固い誓いだった。
翌日の夜明け前。
俺は、一介の商人として、質素だが動きやすい旅装に着替えていた。カゲは、すでに闇に溶け込み、その気配を消している。
リリアンナは、王城の秘密の通路まで、俺たちを見送りに来てくれた。
「……死なないでよ、カガヤ。あなたという、千年に一度の面白い謎を失うのは、私にとって、この世界の何よりの損失なのだから」
リリアンナは、いつもの軽口を叩きながらも、その紫色の瞳には、心からの心配の色が浮かんでいた。千年以上を生きたハイエルフにとって、この数ヶ月は瞬きほどの時間だったかもしれない。だが、彼女にとっても、俺たちとの出会いは、退屈な悠久の時に投じられた、刺激的な一石だったのだろう。
「ああ。約束する。リリアンナさんも、あまり無茶はしないでくださいよ。貴女は、俺たちの知恵袋なんだからな」
そして、俺はセレスティアに向き直った。
彼女は、ただ、静かにそこに立っていた。言葉は、ない。俺たちは、昨夜、すでに交わすべき言葉の全てを、交わしていたからだ。
彼女は、そっと小さな布袋を俺に差し出した。中には、彼女が自ら焼いたという、少し不格好な焼き菓子が数個入っている。
「……道中、お腹が空くでしょうから」
その、あまりにも聖女らしからぬ、素朴な贈り物が、俺たちの間にあった全ての言葉よりも、雄弁に彼女の心を伝えていた。
俺は、布袋を受け取り、深く頷いて見せた。彼女もまた、涙をこらえ、力強く頷き返してくれた。
もう、振り返らない。
俺は、彼女に背を向け、王都の城門へと続く、薄暗い道を歩き出した。
やがて、巨大な城門が、夜明け前の静寂を破り、ゆっくりと開かれる。門の向こうには、朝靄に煙る、どこまでも続く道が広がっていた。
俺の、「守護者」としての本当の戦いは、ここから始まる。
自由交易都市シエル。その混沌の坩堝で、俺は、新たな力を掴み取ってみせる。
セレスティアとの約束を、そして、この世界の真実を、この手にするために。
俺は、一度も振り返ることなく、新たな戦場へと、その一歩を踏み出した。
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