第109話:知恵ある愚行
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「――自由交易都市シエル」
俺の脳裏に浮かんだその都市の名は、膠着した状況を打破するための、唯一の希望の光だった。王子の庇護という金の鳥籠の中で、ギルドや教会の見えざる壁に阻まれるくらいなら、自ら新たな市場へと飛び込み、そこで力をつける。商人である俺にとって、それは至極当然の結論だった。
だが、俺が新たな活路を見出し始めた、まさにその矢先。
王都の闇に潜む者たちが、最後の罠を仕掛けてきた。
きっかけは、第二王子ゼノンからの、一つの知らせだった。
「カガヤ。北のドラクシア公爵家と繋がりを持つ、シュトライヒ男爵という貴族が、君に話があるそうだ」
シュトライヒ男爵。彼は、最近になってゼノンの改革派に接近してきた、新興貴族の一人だ。
「男爵は、自領の鉱山から、極めて珍しい性質を持つ鉱石が産出したと報告してきた。その鉱石は、魔素に反応して、微弱なエネルギーを放出するらしい。彼は、それが君の研究の役に立つのではないかと言っている」
ゼノンは、純粋な善意から、その情報を俺に伝えてくれた。だが、俺の脳内では、アイが即座に警告を発していた。
《マスター。シュトライヒ男爵の申し出は、罠である可能性が92.8%です。彼の領地は王都の郊外に位置し、王子殿下の親衛隊の管轄外。そして何より、彼の背後には、邪神教との繋がりが疑われる、北の公爵家の影があります》
あまりにも話が出来すぎている。まるで、俺という魚を釣るために、極上の餌をぶら下げているかのようだ。
「分かっている。だが、その鉱石の話が事実なら、見過ごすわけにはいかない」
俺は、敢えてその危険な賭けに乗ることにした。邪神教(炎の紋章)が、俺に何を仕掛けてくるのか。その目的と、彼らが持つ力の片鱗を、この目で確かめておく必要があったからだ。
「殿下。事を荒立てるべきではありません。調査は、俺とカゲの二人だけで、極秘裏に行います」
俺の提案に、ゼノンは渋々ながらも頷いた。
約束の日、俺はカゲと共に、シュトライヒ男爵の待つという王都郊外の古い城館へと向かった。
鬱蒼とした森の中に佇むその城館は、不気味なほどに静まり返っていた。
「……罠だ。血の匂いがする」
俺の隣で、カゲが低い声で呟いた。彼の五感は、アイのセンサーよりも正確に、この場所に満ちる死の気配を捉えている。
「ああ。百も承知だ」
俺たちが城館の扉を開けた瞬間、その罠は発動した。
扉が閉まると同時に、城館の内部から、数十の黒い影――「炎の紋章」の狂信者たちが、一斉に姿を現した。
「お待ちしておりましたよ、異邦人カガヤ」
広間の奥から、あの仮面の男が、悠然と歩み出てきた。
「我らの目的は、お前のその頭脳。お前が持つ『理術』の知識、そしてお前を操る主の正体だ。大人しく投降すれば、苦しまずに済むものを」
彼の言葉は、彼らが俺の背後にいるアイの存在にまで気づいていることを示唆していた。
「生憎だが、俺の知識は安売りする主義じゃないんでな」
俺がそう言い放つのと、戦闘が開始されたのは、ほぼ同時だった。
「カゲ!」
「心得ている」
俺の短い指示に、カゲは音もなく闇へと溶け込み、敵の背後からその刃を煌めかせた。彼の暗殺術は、まさに神業の域に達している。
だが、今回の敵は、これまでとは明らかに違った。
狂信者たちが構える剣や鎧から、不気味な共振音が響き渡る。遺跡で見たものと同じ、幾何学的な紋様が刻まれ、青白い光を放っている。
「くっ……!」
カゲの刃が、狂信者の一人の鎧に弾かれる。遺跡から盗掘された遺物か、あるいは模倣品か……。
俺たちの攻撃は、簡単には通用しない。
それどころか、彼らはその武具から、魔素の刃を放ち、俺たちを追い詰めていく。
「結界!」
俺は、腕の触媒から防御壁を展開し、かろうじてその攻撃を防ぐ。だが、多勢に無勢。じりじりと、しかし確実に、俺たちは包囲され、追い詰められていく。
《マスター!敵の武器は、マスターの結界と同じ原理で、エーテル粒子を指向性のエネルギーへと変換しています!このままでは、エネルギーが相殺され、消耗戦になります!》
「分かってる!」
俺は、カゲと背中合わせになりながら、必死に応戦する。彼の動きは、影のように滑らかで、正確無比だ。だが、その彼の身体にも、徐々にかすり傷が増えていく。
「カガヤ!ここは私が!お前は行け!」
カゲが、初めて感情のこもった声で叫んだ。
「馬鹿を言え!お前を見捨てて、一人で逃げられるか!」
だが、その言葉も虚しく、俺たちの周囲には、次々と新たな狂信者たちが現れる。
仮面の男が、広間の奥で、まるで舞台の結末を愉しむかのように、静かにこちらを見つめている。
絶体絶命。
俺の脳裏に、その二文字が浮かんだ。
◇
その頃、王城は静かな夜の闇に包まれていた。俺に与えられた翼棟のテラスでは、セレスティアが一人、夜空に浮かぶ二つの月を見上げていた。庭園から漂う夜咲きの花の甘い香りが、穏やかな静寂を満たしている。だが、彼女は突如、説明のつかない悪寒にその身を震わせた。夜風の冷たさとは違う、魂の芯を凍らせるような、不吉な感覚。穏やかな静寂を突き破る、鋭いガラスの破片のような痛みが、彼女の胸を貫いた。
「……コウっ!」
それは祈りではなかった。魂そのものの絶叫だった。
彼女の脳裏に、神託が、鮮明なビジョンとなって流れ込んできた。
血に濡れ、倒れる俺の姿。そして、それを冷たく見下ろす、仮面の男。
「……いやっ!」
彼女は、悲鳴と共に立ち上がると、部屋を飛び出し、夜の王城を、ただ一心に、第二王子ゼノンの私室へと走った。
「殿下!ゼノン殿下!ゼノン様!」
扉を叩き破るかのような勢いで、彼女は叫んだ。涙ながらに、必死に懇願する。
「神託が……!コウが、危ないのです!シュトライヒ男爵の城館に……早く、兵を!」
彼女の必死の形相と、その言葉に宿る神託の力に、ゼノンは一瞬で事態を理解した。彼は、即座に近衛騎士団の出動を命じた。
◇
そして、再び、戦場の城館。
俺は、ついに膝をついていた。触媒のエネルギーは、ほぼ尽きかけている。カゲも、深手を負い、その動きは鈍い。
「終わりだな、異邦人」
仮面の男が、ゆっくりと俺に近づいてくる。
「お前の知識は、我らが『真の理』のために、有効に活用させてもらおう」
万事休す。
俺が、セレスティアの顔を思い浮かべながら、死を覚悟した、その瞬間。
ドガァァァン!!
城館の巨大な扉が、外側から凄まじい勢いで破壊された。
そこから、月明かりを背に、王家の紋章を刻んだ鎧に身を包んだ、屈強な騎士たちが、一斉になだれ込んできたのだ。
「邪神教の逆賊ども、神妙に縛につけ!」
第二王子ゼノンの親衛隊。彼らの登場に、仮面の男は、初めて舌打ちをした。
「……ここまでか。だが、覚えておくがいい、カガヤ。お前がどこへ行こうと、我らの『目』からは、決して逃れられん」
彼は、そう言い残すと、黒い煙と共に、その場から跡形もなく消え去った。
残された狂信者たちは、親衛隊の圧倒的な武力の前に、次々と制圧されていく。
俺は、駆け寄ってきた騎士に肩を支えられながら、その光景を、ただ呆然と見つめていた。
辛うじて、生還した。
だが、それは、セレスティアの奇跡と、王子の力によって、またしても「守られた」結果に過ぎなかった。
このままでは、駄目だ。
このまま、王都にいては、俺は、そして俺の大切な者たちは、いつか必ず、この巨大な陰謀の渦に飲み込まれてしまう。
俺の胸に、王都を離れる決意が、最後の楔のように、深く、そして固く、打ち込まれた。
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