第106話:王都に流れる毒
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遺跡での一件から、王都の権力構造は静かに、しかし確実に変化を始めていた。
第二王子ゼノンは、俺という「未知の変数」と「古代の遺産」という二枚のカードを手に、王宮内での影響力を飛躍的に増大させた。その結果、俺は「王家付き特任研究顧問」という大層な肩書を得て、王城の一角にある豪華な翼棟で、かつてないほどの自由と安全を享受していた。
だが、光が強くなれば、影もまた濃くなる。
俺たちが光の当たる場所で王都の未来を語っている間にも、闇に潜む者は、着実にその牙を研いでいた。
変化は、街の空気から始まった。
研究資料の調達のため、俺がお忍びで王都の市街へ足を運んだ時のことだ。以前は、俺の姿を見つけると、人々は畏敬か、あるいは好奇の視線を向けてきた。だが、今の彼らの目は違う。ひそひそと交わされる囁き声。俺に向けられる、明らかに敵意と恐怖が混じった視線。それは、俺の肌をじりじりと焼くような、不快な感覚だった。
「おい、見たか。あれが、聖女様を誑かしたという……」
「触らぬ神に祟りなし、だ。関わらん方がいい」
《マスター。半径50メートル以内で、マスターに関するネガティブな会話を七件検知。キーワードは『魔術師』『魂を喰らう』『不敬』『誑かす』……》
〈もういい、アイ〉
《噂の拡散速度は、当初の予測を上回っています》
アイの冷静な報告が、脳内に響く。
「……やはり、始まっているか」
俺は、深くため息をついた。筆頭異端審問官サルディウス。光の当たる法廷で俺を断罪することを諦めた彼は、より陰湿で、しかし効果的な手段で、俺の社会的信用を失墜させようと動き出したのだ。
〈全く、古典的だが効果的な手口だ〉
《肯定します。人間の精神は、論理よりも感情に強く影響されますので》
彼は、自らの配下にある審問官や、敬虔な信者たちを使い、王都の各地区で、俺に関する悪意に満ちた噂を組織的に流布させていた。
「あの男の力は、人々の魂を代償にして、その奇跡を起こしている」
「聖女様は、あの異端者に心を操られ、偽りの神託を告げさせられているのだ」
「彼の瞳を覗き込んではならない。魂を吸い取られるぞ」
それは、人の心に巣食う、疑念と恐怖という名の、甘美な毒だった。真実など、どうでもいい。人々は、分かりやすく、そして刺激的な物語を求める。異邦から来た謎の男と、彼に誑かされた聖女。これほど、酒場の肴として格好の物語はないだろう。
サルディウスは、俺を社会的に孤立させ、その価値を貶めることで、再び俺を断罪の俎上に載せる機会を、静かに、そして虎視眈々と狙っているのだ。
その毒牙は、当然、セレスティアにも向けられていた。
その夜、テラスで星空を見上げる彼女の表情は、どこか曇っていた。
「セレスティア。何か、あったのか?」
俺がそう声をかけると、彼女は俺の存在に気づき、力なく微笑んだ。
「……コウ。いいえ、何でもありません」
「嘘が下手だな、君は」
俺がそう言うと、彼女の瞳から、こらえていた涙が一筋、静かにこぼれ落ちた。
「……教会の中で、私を避ける者たちがいるのです。私が通ると、皆がひそひそと噂をし、まるで汚れたものを見るかのような目で、私を見るのです。『聖女様は、変わられてしまった』と……」
聖女として人々のために祈れば祈るほど、その祈りさえもが、俺を貶めるための道具にされてしまう。俺という存在が、彼女の神聖さに、泥を塗っているのだ。
「俺のせいだな。すまない」
「いいえ!コウのせいではありません!」
彼女は、強く首を横に振った。
「悪いのは、真実を見ようとせず、己の信じたいものだけを信じる、人々の心の弱さです。そして、その弱さにつけ込む、卑劣な者たちです」
彼女の瞳には、涙と共に、強い怒りの炎が燃えていた。
「ですが、今の私には、何もできません。今の、聖女という立場は、あまりにも無力です」
彼女の言葉が、俺の胸に突き刺さる。
第二王子の庇護があっても、この見えざる敵意の網から、彼女を守ることはできない。王家の権力は、人々の信仰の前では、必ずしも万能ではないのだ。
俺は、改めて自らの無力さを痛感していた。
力とは、武力や知識だけではない。人々の心を動かす「影響力」、そしてそれを支える「経済力」。それらがなければ、本当に大切なものを、守り抜くことなどできない。
「セレスティア。君は、無力じゃない」
俺は、彼女の肩をそっと抱き、言った。
「君の挑戦は、まだ始まったばかりだ。そして、俺もそうだ。俺たちは、まだ、何も失ってはいない」
その夜、俺は決意を新たにした。
王子の庇護の下で、研究に没頭するだけでは駄目だ。この王都で、この国で、俺自身の足で立ち、そして戦うための「力」を手に入れなければならない。
〈アイ。例の件、そろそろ実行に移すぞ〉
《了解しました、マスター》
サルディウスが人の心を操り、俺たちを盤上から排除しようというのなら。
ならば、俺が新たな盤を作るまでだ。商人としての、俺のやり方でな。
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