第100話:星々の記憶
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壁画の回廊を抜けた先は、再び様相を異にする通路だった。これまで進んできた自己修復機能を持つ有機的な素材とは違い、その通路は黒曜石を磨き上げたかのような、冷たく無機質な素材で構成されていた。
〈アイ。この壁画を記録しておけ〉
俺は、脳内でアイに指示を出しながら、歴史の重みを感じさせる壁画を振り返った。
《マスター。すでに高解-像度でのスキャンとデータ保存を完了しています》
通路を進むにつれて、肌を刺すほどの濃密な魔素の奔流を感じる。それは、純粋なエネルギーの海の中を進むかのようで、身体が活性化する心地よさと、未知の放射線に身を晒す危険な感覚が同居していた。
ふと、隣を歩いていたセレスティアの足が止まったのに気づく。彼女は頬を上気させ、うっとりとした表情で、その濃い空気を味わっているかのようだ。
「セレスティア?大丈夫か?」
俺が声をかけると、彼女は夢から覚めたようにハッと我に返った。
「は、はい……!大丈夫です。ただ、ここの空気は……とても、温かくて……懐かしいような……」
その様子を見て、リリアンナが興味深そうに目を細める。
「ふむ。彼女の身体が、この遺跡の魔力と共鳴しているのやもしれぬわね。その先祖返りの血が、この古代のエネルギーに反応している、とでも言うのかしら」
セレスティアも大丈夫そうなので、そのまま進むことにした。
やがて、黒曜石の通路は、まるで巨大な洞窟の入り口のように、唐突にその終わりを告げた。その先には、もはや道はなく、ただ底知れぬ闇が広がっているだけだった。
「行き止まり……か」
俺は、失望を隠さずに言った。探し求めていた『禁書庫』はおろか、ただ一冊の『禁書』さえここには無い。希望が絶たれたかのように思えた。
「そんな……ここまで来たのに……」
セレスティアの声が力なく響く。
その時だった。
「いいえ、違うわ」
リリアンナが、その呟きを否定した。学者の探求心が、この異様な空間の中にある唯一の「存在」を捉えていた。
「見て。中央に、何かある」
彼女が指し示す空間の中央に、周囲の闇とは対照的に、純白の大理石で作られたかのような、高さ三メートルほどの柱状の石碑が鎮座していた。それは、この絶対的な無の中にして、唯一の秩序であり、始まりであり、そして終わりであるかのような、神聖な雰囲気を纏っていた。
俺たちは、吸い寄せられるように、ゆっくりとその石碑へと歩み寄った。斥候のカゲを先頭に、周囲への警戒は怠らない。
五十メートルほど近づいたところで、俺たちはその石碑の異様さに気づき、足を止めた。それは、大理石などではなかった。表面は滑らかでありながら、内部には無数の光の粒子が、まるで銀河のように渦巻いている。石碑そのものが、一つの閉じた宇宙であるかのようだ。表面には、俺たちの知るどの文字とも違う、幾何学的な紋様が刻まれ、見る角度によってその形を複雑に変化させている。
「これは……いったい……」
リリアンナでさえ、その正体を掴みかねて、ただ息を呑むばかりだ。
俺もアイも、この物体の情報を読み取ることができない。それは、俺たちの科学的理解を完全に超越した、まさに「神々の遺物」だった。
俺たちがその圧倒的な存在感に言葉を失っている、まさにその時だった。
セレスティアが、ふっと何かに引かれるように、石碑へと最後の数歩を歩み寄っていた。その足取りは、確かな意志に導かれているかのようだ。
「セレスティア!待て!」
俺の制止の声は、彼女の耳に届いていなかったのかもしれない。あるいは、聞こえていても、もう止まることはできなかったのだろう。彼女の白い指が、ゆっくりと、そしてためらいなく、純白の石碑の表面にそっと触れた。
――その瞬間、世界が、鳴った。
キーン、という金属音にも似た、しかし魂の芯を直接震わせるような、清浄な共振音。それが、彼女の指と石碑が触れた一点から、空間全体へと響き渡った。
同時に、その一点から、青白い光の回路が、まるで生き物の血管のように、石碑の表面を瞬く間に駆け巡る。刻まれていたはずの幾何学紋様が、その光の脈動によって意味のあるパターンを形成し、複雑に点滅を繰り返す。
そして、光は石碑からあふれ出し、波紋のように、いや、それよりもっと速く、光そのものが爆発的に膨張するように、絶対的な闇を塗り替えていった。
完全な闇だったはずの黒い壁面が、一斉に深遠な宇宙空間へと姿を変えたのだ。
俺たちは、息を呑んだ。いつの間にか、俺たちは、無数の星々が輝く、銀河の真っただ中に立っていた。
足元には、透明な床を通して、渦を巻く巨大な銀河が見える。頭上には、色とりどりの星雲が、壮大な天の川を描き出している。手を伸ばせば、遠い星団に手が届きそうなほどの、圧倒的な臨場感。それは、単なる映像ではない。俺たちの五感そのものに直接情報を書き換える、超高度な仮想現実だった。
「まあ……!」
セレスティアは、ただ息を呑み、言葉を失っている。彼女の碧色の瞳には、生まれて初めて見るであろう、故郷の空を超えた、真の宇宙の姿が映り込んでいた。
「これが……星々の、海……」
彼女が神託で視たという光景そのものが、今、目の前に広がっていた。
「信じられない……。古代の文献にあった『天球の儀』……?」
リリアンナもまた、学者としての冷静さを失い、目の前の光景をただ呆然と見つめていた。斥候のカゲでさえ、フードの奥で、その鋭い目を驚きに見開いているのが分かった。
《マスター……。これは……》
アイの声が、珍しく興奮に揺らいでいた。
《空間全体が、超高密度なホログラフィック・プロジェクター、そして、感覚情報インターフェースとして機能しています。現在表示されている星図は、地球連邦のデータベースには存在しない、完全に未知の領域のものです。これは、第一級の発見です。》
俺は、アイの報告を聞きながら、ただ目の前の光景に圧倒されていた。故郷を離れて数ヶ月。まさか、こんな形で、再び星々の海を目にすることになるとは。だが、それは懐かしさではなく、むしろ、自らの故郷がいかに遠い場所にあるのかを、改めて突きつけられるような、残酷な美しさだった。
俺は、セレスティアへと向き直った。彼女は、石碑に触れたまま、まるで宇宙そのものと対話しているかのように、静かに佇んでいた。彼女の体からは、淡い光があふれ出し、石碑と共鳴している。やはり、この遺跡のシステムは、彼女の持つ特異な生体エネルギーに反応しているのだ。
「セレスティア、何か分かるか?」
俺の問いに、彼女はゆっくりと目を開けた。その瞳には、先ほどまでの戸惑いはなく、何かを深く理解したかのような、静かな叡智の色が宿っていた。
「……ここは、『星見の間』。神々の故郷を想うために造られた場所……。」
書物ではない、か。アルケム殿が言っていた『禁書』とは、文字で記された知識のことではなかったのかもしれない。
この遺跡そのものが、そして今、俺たちの目の前にあるこの『星見の間』が、「真実の記録」…『禁書』そのものなのだとすれば。
その考えに至った時、一つの謎が解けると同時に、より根源的な、無数の新たな問いが俺の頭の中に生まれていた。
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