第四話:嵐の予兆なき朝
第四話:嵐の予兆なき朝
その朝、フォールクレスト領は穏やかな光に包まれていた。前節で感じていた不穏さや危機感は、眩しい太陽の下では、まるで悪い夢だったかのようだ。村では煙突から朝食の支度をする煙が立ち上り、鳥たちがいつものように歌っていた。畑では農夫たちが鍬を手にし、鍛冶場からはドワーフのグリムの槌の音がリズミカルに響いてくる。子供たちは村の広場で無邪気に駆け回っていた。皆、それぞれの日常を生きていた。彼らは知る由もなかった。その穏やかさが、間もなく血と炎に飲み込まれる嵐の前の、最後の静けさであることを。
私はいつものように、庭で剣の訓練をしていた。朝露に濡れた地面を踏みしめ、木剣を振るう。父の側仕えであり、私の剣の師でもある古参の兵士、トーマスが見守る中、父から教わった型を繰り返す。呼吸は整い、体は研ぎ澄まされていく。辺境で生きる者にとって、己の身を守る術は必要不可欠だ。トーマスは私の動きに鋭い目を向けながら、時折短い助言をくれる。「腰をもっと落とせ」「敵の重心を見ろ」。彼の言葉は、戦場での経験に裏打ちされていた。父もまた、領主館の広間で、わずかな兵士たちに指示を出していた。夜間の見回りを強化し、街道沿いの監視を密にするよう命じている。先日の野盗襲撃の報告を受け、父の顔には緊張の色が張り付いていたが、それでも領主としての責任感から、冷静さを保とうとしていた。
「最近、近隣の領地との連絡が取りづらくなっている」父は訓練を終えた私に話しかけた。「伝令が戻ってこなかったり、魔法的な通信も途絶えがちだ。まるで何か大きな力が、辺境を孤立させようとしているかのようだ」
私は父の言葉に頷いた。確かに、この数週間、情報は滞りがちだった。かつては帝都から定期的に届いた勅書や通達も、今はほとんどない。辺境は見放されている。その事実は、皆薄々感じていた。帝国の衰退は、単なる政治的な問題ではなく、辺境を蝕む物理的な病でもあった。
森の端では、ウッドエルフの斥候エララが、いつものように気配もなく現れ、父に森の状況を報告していた。彼女は人間とはあまり関わらないが、フォールクレストの森が荒らされるのを嫌い、父に協力してくれていた。「森の奥深くで、通常ではありえない獣の群れが南へ向かって動いています」「奇妙な光を見た、地の下がざわめいているような…」彼女の報告も、最近は、まるで大地そのものが何かを予感してざわついているかのような、漠然とした不安を煽るものだった。
私はエララの言葉を聞きながら、前夜感じた不吉な予感を思い出していた。夜空の赤みを帯びた月、異様な音、奇妙な匂い……。しかし、この穏やかな朝の光景を見ていると、それは杞憂に過ぎなかったのかもしれない、という思いが頭をもたげる。空は澄み渡り、風は穏やかだ。森の木々は静かに葉を揺らしている。ただ、ふと気づけば、いつも賑やかな鳥のさえずりが、今日は妙に少ない気がした。丘の上の森から、一斉に、異常な数の鳥たちが慌ただしく飛び立つのが見えたが、その時は「何か大きな獣でも通ったのだろう」と、すぐに思考から追い出した。それは、これから起こる嵐の、あまりにも小さく、そして決定的に見過ごされた予兆だったのだ。