5匹目 余田ハジメ、転移中⑤
異世界コン○ーム男
「ちゅ?」
ハジメの耳に、わずかに甲高い音が聴こえた。
しかし、人の声ではない。
それは金属を引っ掻いたような、しょぼい笛のような、小さな鳴き声のようだった。
「ちゅう」
今度ははっきり聴こえた。
目線を上げる。裏路地の向かい側の低い屋根の上に、声の主が姿を現す。
そこには一匹の──ネズミがいた。
「うわあ! なんだよお前、あっち行け、シッ、シッ」
奇妙な銀色のネズミは、ハジメの周りをうろちょろと嗅ぎ回る。
気味が悪いと思いながら、手で払い除け──ようとしたが、危ない危ない。
野生のネズミを素手で触ってはいけない。
彼はポケットの財布を振り回した。
「ほれ、シッ、シッ」
ネズミは、ただのネズミじゃなかった。
やけにすばしっこい上に、その額にはユニコーンみたいな『角』が生えている。
「これも、異世界のモンスターってか? ──あ!」
突如、ネズミはハジメの財布を、その角を使ってパシッと器用にひったくってしまった!
異世界最弱の男は、たかが小ネズミ一匹に、まんまとその全財産を奪われたわけである。
小動物の速やかな逃げ足を呆然と見送ると、彼は卑屈な考えをした。
まあ、野口英世が異世界でも顔が利くとは思えないし。……
平等院鳳凰堂も、樹の葉っぱも、どうせ役立たずだろ。
まるでおれだな! ってな、アハハハハ。……
「…………待てよ?」
ふと、何かを忘れていることに気づく。
『何か』。
対して重要でもないような、それでいて、己の自尊心を抉るような、一つの思案。……
「──思い出した!」
ハジメは唐突に立ち上がると、駆け出した。
ネズミは──果たして、居た。
こちらの様子を窺いながら、まるでからかうようにジグザグと曲がり、表通りを走る。
ハジメは、それを必死に追いかけた。
時折人にぶつかって、すみません、すみませんとペコペコ謝りながら。
──彼をあんなに慌てさせるのは何か?
──奪われた財布の中に、何が入っているのか?
「待て!」
──入っているのは、全国で最も名の知れている、あの避妊具である。
「言うな!」
ハジメはちょくちょく止まりつつ振り返ったネズミに飛びかかる。
しかしネズミは男を嘲笑うが如く、クルッと軽やかにターンして避ける。
──無論、彼、余田ハジメは、現役童貞である。
「止まれ!」
いつの間にか、ネズミは入り組んだ坑道へと入り込んでいる。
男の追跡は焦りを帯びて、その狡猾な齧歯類により、地下へ、地下へといざなわれる。
──ではなぜ、彼がそのような律儀なモノを佩帯しているのか?
「よせ!」
──愚問である。
「やめろぉおおおおおおおおおおおおおおおおおオ!」
■■■
──えー、キッモーイ! 万が一、とか考えてんのォ?
──うーわ、きっしょ(笑)。万が一もなにも、最初っからオメーにそんな機会、万が一も、無ーから!
ズザザザザッ。
いつからか下っていた長階段をすっ転びながら落ちたハジメは、脳内ギャルたちに嘲笑されていた。
カエルみたいに跳ね上がって、彼は叫ぶ。
「チガウ! いや、おれはね、相手を大事にしたいと思うし、ってかそれも妄想かもだけど!
おれみたいなヒキニートの社会不適応者に……って、そんなことわかってらあ!
じゃねえ、ああそう、これは自分用!」
……
誰に弁解したのかわからない。
誰もお前の言い分なんぞ聞いてないし、興味も無い。
男の切実な弁明が、暗い地下の坑道の壁へと虚しく染みる。
「ちゅ」
ネズミは十メートルほど離れた先で、こちらを振り返る。
すると、やけに簡単に財布をポトリと床に落とした。
「お、おれのがま口!」
ハッとすると、環境に目がいった。
薄暗い場所だ。
外はまだ夕暮れ時のはずだから、陽の光も入らないほどの、地下特有の暗がりと言っていい。
見ると、ネズミの立つ場所の近くに燭台がある。
そこに立つ蝋燭の火が消えれば、おそらく何も見えなくなるだろう。
それくらいの、闇の地下室。
「なんだ、ここ……」
街はそんなに冷寒な気候でもなかった。
いやむしろ、今日はカンカン照りの快晴で暑いくらいだった。
もちろん、ここも寒いわけではない。
が、なぜだか嫌な肌寒さというか、竦み上がるほどの無機質な恐ろしさのある空間だった。
ハジメは土のような石のような湿った壁を手探りしつつ、一歩、また一歩と進む。
あんなに俊敏に逃げ回ったのに、今は微動だにしない、奇妙なネズミのもとへ。
ネズミが鳴く。
蝋燭の炎が揺らぐ。
「……ちゅう」
進んだ先は、牢獄。
その中に、少女の裸身が一つ、括り付けられていた。