29匹目 ヤギ、調教中⑨
「《悪魔王》……」
ベルの表情は絶望に染まっている。
突如、ネコ耳美女の電流フィールドがフッ、と消えた。
代わりに、夜天に至極色の渦潮が巻き、暗雲となって星々を覆い尽くした。
悪魔のようなモンスターは、ふいに天に両手を差し向け、ブラックホールみたいな球を作り出す。
それがいつの間にか消えたかと思うと、空を斬るような音がし、遥か彼方の宇宙が猛烈に光明を上げた。
見ると、暗雲に一条、ぽっかりと穴が開き、その真上の先ほどまであった青色の一等星がこつ然と消滅している。
「おお。いいぞ! これが私の眷属! さあ、存分にその力を──」
と、言いかけたヤギ娘の眼の前に、瞬時に悪魔は移動していた。
悪魔はニヤリと笑うと。──
ボクンッ。
「……あ?」
ヤギ娘の左腕が、喰われていた。
「────ッ!」
娘は声にならない、驚愕の悲鳴を上げた。
その左肘から先が破裂するように、赤黒い闇が噴出する。
「ぎゃああああああああああああああああッ!!」
やがて、痛覚が遅れて認識できたか、娘の引っ裂くような叫び声が響いた。
ハジメたちの足元に輝いていた巨大な魔法陣が、消え失せた。
「見るな、ベルさん……」
ハジメはベルの目を塞いだ。
悪魔はただひたすらに無言で、美味そうにヤギ娘の腕を飲み干した。
と思うと、その三メートルほどある巨大な肉体が赤黒い、まばゆい光に包まれる。
「ハジメさん……走ってください」
ベルが言った。
ハジメの腕を除けて、巨大な現実をまざまざと直視している。
「あれは、《悪魔王》……こんなの、現実にいるなんて」
ハジメの視界に、悪魔がギョロッ、とこちらを振り向いたのが映った。
モンスターが、二人に気づいた!
しかし少女は、ハジメの目だけを見て、告げる。
「あたしが先に死ぬので、ハジメさんは逃げて──生きる限り走ってください」
すると、ベルはハジメを蹴っ飛ばした!
「ぐあッ」
ハジメは五メートルほど後ろに退かれた。
バッ、と起き上がり、自分を蹴っ飛ばした少女を見遣る。
しかし、すでに背が向けられ、その瞳は見えない。
「…………」
悪魔と少女は相対する。
少女は、無心に、祈りもせず。
ただ男の前に立っている。
悪魔は天使のように微笑み、少女の前に降り立つ。
至極色の渦雲が逆巻き、再び悪魔の手元に小さなブラックホールが出現する。
「…………」
悪魔は、まるで大人が子どもにお菓子をあげるような手つきで、その黒球──星を吹き消すほどの──を、少女に触れさせる。──
■■■
ガッ。
ベルは、人の手が悪魔の腕を掴んだのを見た。
ハジメだ。
彼は無表情で悪魔を睨んでいた。
巨大な悪魔は首を傾げ、そのゴツゴツと禍々しい角の生え揃った頭を男のほうへと屈める。
男はひどく冷静に少女を見遣り、またスッと目線を悪魔に向けた。
──と。
■■■
音も無く、敵は飛び散った。
悪魔の肉体は跡形もなく粉砕され、まもなく辺りに至極色の血の雨が降った。
天が明け、暗雲は千切れ、未明の淡い光芒が差し込む。
その驟雨と残酷な光の中に、男──ハジメは掲げた拳を下ろし、それを見つめながら、言った。
「ベルさん。ボクは死にたくないです。でも、それよりもあなたが死ぬのを見たくありません」
ハジメは、今度は優しい瞳でベルを振り返った。
「おれは、あなたを先に死なせるつもりはありません──生きましょう」
ベルは、差し出されたハジメの手を取った。
が、少女は不思議な表情を浮かべた。
「──ど、どこへ?」
「…………」
と、ハジメはここでふと思い当たる。
『生きましょう』──『行きましょう』。
「ぷっ」
ハジメは少し笑ってしまった。
ベルは小首を傾げて、わからないような、困ったような笑みを浮かべる。
ハジメは、言い直した。
「──『生存』、しましょう」
■■■
……
…………
「……………………待てよォ」
二人は振り向く。
ヤギ娘が、気絶したネコ耳美女を身体全体で包み込むようにして起き上がらせていた。
歯や裸足を使って、上手に、ズルズルと引きずって。
「死なばもろとも、ってな……ハハハ」
ヤギ娘は笑った。
その手に、銀色の物体が閃いた。




