2匹目 余田ハジメ、転移中②
気絶
「田んぼだ!」
なんとも幸運なことに、走るうちに森の外へ出られたらしい。
宵闇の中ではあるが、見渡すかぎり爽やかな田園風景が広がっていた。
ハジメが異世界に飛ばされた場所は、どうやら、人里近い森の端っこの方であったらしい。と、
バターン!
ハジメは、ぶっ倒れた。
日常の運動といえば、自宅〜図書館の最高往復長一・二キロ。
骨も筋肉もすっからかんのビニ弁&インスタントボディ。
誰もが羨まない、便利と現代日本の申し子。
それが、大量のスライムに追われて、全力疾走。
命ガラガラ、数分間にわたる逃走劇。である。
「喉が、渇いた……」
ゼエゼエと血混じりの呼吸をしながら呟く。
疲労とスライムの攻撃によるダメージで、四肢は痺れて全く使い物にならない。
「身体、が、動か、ない……」
地面に大の字に横たわったハジメは、ただ視力の映すまま上方の世界を見ることしか許されなかった。
その眼に映る、帳を下ろした空。
そこには、ハジメの暮らしていた都会では見られないような、壮絶な、濃紺の星々が万華鏡のようにキラキラと瞬いている。
「……きれいだ」
ハジメは深く息を吐くと、やがてゆっくりと目を閉じた。
■■■
(これは、夢?)
朦朧と、幻燈が浮かぶ。
小学校の教室だ。
ドアの上には、『5年2組』と書かれたプレートが突出している。
「やいハジメ、さっさと組み作りやがれ!」
クラスのリーダー格の男子がハジメに言う。
ハジメはその朦朧とした意識の中で思い出す。
(『組み』……何だったっけな……そう)
「三人一組。お前だけだぞ、余田」
「ヨダ、ハジメ……余田、一……アマリダ、イチ!」
閃いた、という口調で誰かが言った。
「あまり、いち。『余り一』……おもしれえな。それ、あっまりいちっ!」
別のクラスメイトも、手を叩いて囃す。
「あっまりいちっ、あっまりいちっ」
クラスが合唱に包まれる。先生はいない。
「あっまりいちっ、あっまりいちっ」
(思い出した。たしか、修学旅行の班決めだったと思う。
三人組を作れみたいな時間に、おれ一人だけ余ったんだ)
「あっまりいちっ、あっまりいちっ」
(おれは何て反応したのだろうな。クラスの好きな子もその場にいた気がする)
が、思考が暗い海の底に沈んで、はっきりと思い出せない。
(なんでこんなこと、思い出したんだろ……)
■■■
「……下の子は、てんで駄目。お兄ちゃん達はできた子なのにねえ」
場面が変わった。オフクロの声だ。
これは中学生くらいのとき、親の寝室の前で聞こえた言葉だ。
母親は、電話でもしているのだろうか。
(そう、兄貴は、二人とも優秀だった。おれが一番ひねくれてて、出来が悪くて……)
両親ともに、優秀な人だった。
もちろんそれなりの職にも就いていた。
だから当然の如く、彼らは子どもにも優秀を求めた。
(おれは、おれだけは『それ』にそぐわなかった)
家庭。学校。子どもの頃。
数年後、ハジメは二十五の、立派なヒキニート。
家の恥、社会の除け者、部屋に閉じこもって、たまにコンビニか図書館に出るだけの、文字通り、お蔵入り人生。……
闇のような海の中を、いくつもの記憶の残骸が、クラゲみたいに次々と浮かび上がる。
(ふ、ふ、ふ……)
いつの間にか、ハジメは笑っていた。
自嘲だ。
「あっまりいちっ、あっまりいちっ」
(そうかもしれない)
「下の子は、てんで駄目」
(そのとおりだ)
クラゲは、どんどん殖えていく。
辺りは哄笑の渦で、ハジメの声か、クラゲたちの声か、もうわからない。
余り。除く。徐行。
情けない。やるせない。
そんな人生。
「……みじめだ」
■■■
「そんなこと、ないですよ?」