10匹目 ネズミ、脱走中⑤
異世界生存中
「ハッ」
ハジメは、がばりと跳ね起きる。
天国か? 地獄か?
「あ、間に合った……」
地上である。
傍らにはネズ耳少女──異世界である!
「おれ……寝てましたか」
「あ、いえ、大丈夫です。ちょっと気を失っていたみたいですね」
サッ、と少女が後ろ手になにか隠すような動きをした。気のせいか?
まだ陽は高かった。そんなに長い間、気絶していなかったらしい。
それに、さっきかなり致命傷を負った気がするが、ハジメの身体はどこにも傷がない。
むしろ意識を失い強制的に休んだおかげか、爽やかでピンピンしている。
「ん?」
と、ハジメは違和感を覚えた。
(口の中が、ミントみたいな味がする?)
■■■
「……あっ」
少女が、小さく叫んだ。
遠くを見つめている。その濃紺の瞳に、恐怖の色が浮かぶ。
ハジメもその視線の先を見遣った。
イノシシが、いた!
男の腰くらいまではある大きな体格に、真っ赤な剛毛が生え揃っている。
そして、頭部には例のユニコーンみたいな角。
「あ、れ、なんですか? なんで、こんなところに」
「…………」
少女は人差し指を立て、唇にあてた。
目線を合わせたまま、ゆっくり、ゆっくりと後ずさり、ハジメにもそれを手で促す。
一歩。
一歩。
一歩。
異世界のイノシシがどのくらいの力かはわからない。
が、地球では、少なくとも猟銃が必要だろう。
それに準ずるモノは、しかし現在、無い。
そうでなくとも、ハジメは弱い。
最弱モンスターのスライム一匹すら倒せない、異世界最弱の彼である。
こんな、見るからに強そうなモンスターへ手出しすることも、手を打つこともできない。
イノシシがブルルル……と唸る。
汗が染みて、冷え乾いて、また染みる。
こっちを、狙ってる。……
(ああ、死んだな)
と、ハジメが悟ったその時。
突然、少女はハジメの前に立った。
「なっ!?」
ハジメは叫ぶ──しまった!
イノシシが、猛烈に足踏みした。攻撃の構え。
ハジメは、もう声も出ない。
「──ありがとうございます」
「…………!?」
少女は開口した。しかし、ハジメには立ちはだかるその背中しか見えない。
言葉は続けて紡ぎ出される。
「あなたが来てくれて、嬉しかった。死ぬよりおそろしいことはないと思う。けど、あのときあなたが鍵を開けてくれなかったら、あたしは死ぬほどおそろしい目に合っていたわ。──あ、」
何かに気づいたように、少女の口から、クス、と笑い声が漏れた。
「あなたの名前、知らない……」
「…………!」
少女は振り返る。微笑みを湛えて。
その口が、『にげて』という形に開かれたのを、ハジメは最後に見た。
■■■
イノシシが、突進した。
少女はハジメの二メートルほどさきに、両手を拡げて仁王立ちしている。
その距離まで、イノシシはあと八メートル。
七メートル。
六メートル。
五メートル。
ハジメは、駆けた。
四メートル。
三メートル。
少女を横へ突き飛ばす。
二メートル。
そのままイノシシへ拳を向ける。
一メートル。
「──────ッ!」
鮮烈な光の波が、広がった。
吹っ飛んだ。ハジメではない、イノシシが!
そのまま四十メートル平行に空中飛行して、一直線に木々を薙ぎ倒す。
上にイノシシの過ぎた地面は、その波動により無惨に抉れている。
「え」
ハジメは呟いた。頭が真っ白になる。
目の前の光景が、夢なのか現実なのかわからず、ただ全身に『達成した』という浮遊感が巡る。
遥か向こうに、イノシシは動かない。確かにこと切れている。
ハジメは横を見る。少女は尻もちをついたまま、目をパチクリさせている。
目が合った。
「え」
今度は少女の声だ。驚愕すら通り越した、無色の音だ。
やや怯えつつも、こちらの様子を伺う目。
「あ〜〜、と」
ハジメは戸惑い、言った。
「余田ハジメです──ボクの名前」
少女はキョトン、とした。
なぜ、今このタイミングで名乗ったのか、自分でもよくわからない。ただ、ハジメの脳ミソが強烈に混乱していたとしか言えない。
ハッと気がつくと、急激に恥の念に襲われた。ハジメの顔が真っ赤に染まっていく。
と、少女はクスクスと笑い始めた。顔がほころぶ。
ハジメは初めて、彼女の自然な笑顔を見た。
「ベルです──あたしの名前」




