ほの桃色にまたたく
一、前日
体育館の端に設置された梯の上部、利き手に暗幕を抱え、日佐子は片足を宙に投げ出している。しなやかな体躯、猫を連想させる目、外に跳ねるくせのあるセミロングの髪が汗によっていつもより広がっていた。そんな彼女が不安定な姿勢のまま「ガムテープ取って」と振り返ったため、私はつい声をあらげた。
「日佐子あぶないよ!」
「美矢、叫ばなくても分かってるよ。はやくガムテープ取って」
「安全な場所に着いたら渡すから!」
返ってきたのは呑気な「はーい」で、私は眉を寄せる。日佐子は運動神経の良さを窺わせる身軽さでギャラリーへ上がり、私たちのやりとりに苦笑する後輩に持っていたものを託すと、身を乗り出して右手を伸ばしてきた。
「日佐子! 落ちる!」
「落ちないよ。はやくガムテープ」
「先輩、からかいすぎですよ」
「なぁんか心配させたくなるんだよねうわっ危なっ」
「日佐子!」
私は叫び、投げようと手にしていたガムテープを一瞥する。溜め息をついたのちそれを左の手首へ納めた。梯に手をかけ、深呼吸をし、いまからそっちに行く、と呟く。
「あれ、投げてくれればいいのに。律儀だねぇお姫さん」
友人を睨むが、彼女に貼り付いているのは予想していましたといわんばかりの笑みである。
「まぁ、来るといいよ。待ってる」
再度呼吸を整え、銀色のバーに縋りつくように一段上る。
床が遠ざかった。板の模様が揺れ、思わず目を瞑る。世界から取り残された気分になり、涙を堪えてもう一段進んだ。
「先輩!」上から慌てた声が降ってくる。「先輩、高所恐怖症じゃありませんでしたか?」
え、と日佐子の緊張したアルトが聞こえ、三段目に足をかけたと同時に、彼女に強く名前を呼ばれた。
屋上の縁で踵を宙に浮かべて立っている心地だ。日佐子の狼狽と心配と不安が梯から伝わり、意地だけで体を持ち上げた。
しかし、不意に見えた彼方の地上に絶望し、そのまま動けなくなった。
先輩、と叫ぶ声と驚きの声が上から下から渦を巻き、背後をなにかが落ちていくのを感じた次の瞬間、破るような音が響き、いったぁー、という呟きが私を後ろから包み込んだ。
「……離していいよ」
腰に腕が回されている。
「信じて、美矢」
力を抜くと、体が軽くなり、すぐに足が床をとらえた。
そのまま座り込みたかったが、友人に強く抱き締められていたため、それは出来なかった。
「……美矢のあほ」
落とされた安堵の罵りに、日佐子が謝るまでこの腕の中で泣き続けてやろうと誓い、私は肩に深く顔を埋めた。
二、本部
「捻挫ぁ?」
先輩は長所であるしとやかなソプラノを惜しげもなく捨て、素っ頓狂に叫んだ。長い黒髪が艶を伴って光り揺れる。
「装飾委員会の副委員長って滝嶋日佐子でしょ? 開催式でバク宙やるダンス部の滝嶋日佐子! どうして滝嶋が前日にいきなり捻挫してるのよ!」
日本人形さながら精密に整った顔も文化祭前には般若になるのだと、私は感動を覚えた。
「なんでも滝嶋先輩、ギャラリーから飛び降りたみたいで……」
「またばかな賭けでもやったのね」
「いえその……どうしましょうか泉美先輩」
私の問いに、先輩は溜め息をつく。
「……あゆなには言ったの?」
「はい、生徒会長へは」
「じゃああゆなの考えに任せるわ。そう伝えておいてちょうだい」
「それが、会長は文化祭実行委員長に任せると……」
「また横着してんの、あの女は!」
先輩が叫んだと同時に、彼女の端末が音をたてた。苛立たしそうにそれを耳へ押し付け、はい加納です、と答えた声はいつものソプラノよりも明らかに低い。その声から一時逃れた私は機嫌が直るまで距離を取ろうとそっと後退した。
「代役? 誰よそれ。──え、芽衣ちゃん?」
突然自分の名前が出てきたことにぎょっとし、足を止める。振り返ると、先輩と目が合い、嫌な予感が全身を這った。
「芽衣ちゃん、あなた、バク転とバク宙できる?」
「なんでですか?」
「できるの?」
「できないこともないです、が」
「できるのね」
先輩は強く微笑むと端末に向かい、了解よ、と首を鳴らした。
「了解じゃないですよ! どういうことですか!」
私が端末に飛び付く前に彼女は通話を終了させ、身を翻して満足そうに笑った。
「あら、飛んで回るだけでいいのよ。それに合わせて照明をつけたいだけだから。みんなの視線を独り占め、素敵ねかっこいい」
「話が違うじゃないですか! 私は裏方だってことを条件に先輩の助手をしてるんですよ!」
そうだったかしらと先輩は艶のある表情を浮かべた。その顔と視線は、私の右腕になってちょうだいといわれたときのものと同じで、それにこちらが弱いことを知っていての表情であるから卑怯だった。
「私のために飛んでちょうだい」
その一言と手の甲に落とされたキスが全く予想通りのものだったので、私は顔を真っ赤にして情けなく唸った。
三、当日
ガムの包みをゴミ袋に投げ入れると、アヤアヤに、桃果ってばいらついちゃって、とツッコまれた。
いらついてんじゃなくて緊張してんの。私の呟きは熱気に掻き消される。ダンス部がひしめき合い出番を待つ、ステージ横。制汗剤とボディミストの香りが入り混じり、目の前がくらくらする。
女子高という環境がなせる業か、ダンス部、軽音楽部、演劇部は我が校の「三大アイドル部」で、去年いやというほど思い知らされたプレゼントラッシュが開催式後に待ち受けている。
壁に寄りかかると、思っていたより大きな衝撃が背中を走り、自分が力をコントロールできていないのだと分かった。案の定アヤアヤが「いらつかない!」とツッコんでくる。
緊張すると行動が乱暴になるくせを、自覚はあっても直せないところを見ると、本当の意味では自覚していないのだろう。
ガキかとツッコんでほしい。私じゃない誰かにいわれれば私は自分の悪癖を本当の意味で認識して、少しでも抑えることができるかもしれない。
つまりツッコむところが違うんだよ、ねえアヤアヤ。
「いらついてるわけじゃないっすよ」
「そうっすか? でも顔まじ怖いっすけど」
アヤアヤはハイトーンでけらけらと笑って、人気モデルと同じライトブラウンの髪を揺らした。
ギャルって言葉が似合うねと出会った日に嫌味をこめていってやったのを覚えている。その前にアヤアヤがあたしのことをヤンキーぽいといったのだ。
「タッキー先輩の代わりってメイちゃんなんだぁ」
「バク宙のみね。あいつ運動できるから推薦したの」
「ねー緊張してきた」
「見なよ芽衣葉を。あいつほどじゃないから」
「どこ? 見えない」
背伸びをして芽衣葉を探す彼女を私はくらくらする視界の焦点とする。
不意に目が合ってうっかりごめんと呟いた。ばかだ、謝る理由がどこにある。
うろたえた私に向かって、アヤアヤが「いまアタシに熱視線送ってた?」と、からかう調子で聞いてくる。そーだよ、なんてまさかいえるはずもなく、出番だけが近付いてきて、緊張は興奮に姿を変える。
セットした頭を掻くこともできず、溜め息を一つこぼした。
部員がひしめく舞台裏、緊張をほぐすためだと囁き(吊り橋効果だと心の中で呟いて)アヤアヤの体を私と壁の隙間に一瞬だけ押し込めた。
四、後夜祭
ステージ上で膨大な数の生徒を見下ろさなければならない羽目になった数か月前、伊集あゆなは毎日「明日こそ生徒会長を辞める」と呟いていた。
「ノリだったんだもん。あんなに候補いたのに、まさか当選するなんて思わなかった」
全校集会当日のエスケープを繰り返し、生徒から顰蹙を買うと同時に「サボリ魔会長」の異名をつけられ、そうこうしている内にそのポジションが気に入ってしまたらしいトップはいま、喜々として生徒たちを見下ろしている。
前田紗希がやれやれと満足の息をついた。
「あゆなも変わったもんだね。あの子がまともに会長をやってくれる日がくるとは思わなかったよ」
同感、と私は返事をする。「でも、わたしからしてみれば前田も相当横着者だけどね。長副揃って不作だよ今年は」
前田は一笑し、記録係である私に向き直る。
「弘島、きみに言われたくないね。高校の生徒会の書記ほど重要性のない仕事もそうそうないと思うよ」
「だからわたし立候補したの」
「結局うちら駄目生徒会か」
「文化祭さえ成功すればオッケー。ねーカレン」
後方を仰ぐ。ノートと睨み合っていた井苅華蓮が顔を上げた。几帳面にピンで纏められた髪は表情と異なり、決して乱れない。
「琴音、前田さん。暇なら手伝って」
放たれたメゾソプラノも同様。
「いま会話中」
「暇でしょ」
私が茶化しを返すより先に、前田が口を開く。「つか井苅さんなにやってんの?」
「仕事よ。会計はあなたたちと違って大変なの」
あなたたち、といいながらも井苅の視線は前田のみに注がれている。直前の問いが前田から放たれたのだから当然だ。しかし私はこの一瞬が気に入らない。
「ねー井苅、仕事なんていいじゃん。後夜祭だよ?」
二人の間に割って入ると、前田からは舌打ち、井苅からは大袈裟な溜め息が投げつけられた。井苅の溜め息や眉間の皺は、本気の嫌悪でないことを知っている。前田の舌打ちも、半分くらいは、無論。
「今日中に金券だけでも整理しておきたいのよ」
井苅は再び手元に集中し始めた。
マメだね、の一言は前田と重なった。私たちは顔を見合わせる。仲がいいわけではない。同属であるというだけだ。
会場が一際盛り上がった。
「フォークダンスだ」
「別名告白タイム」
「っつか会長の姿が見えないけど」
「揉まれてるんでしょ」
「二人も行ってきたら?」
ノートに目を向けたまま井苅が零す。私たちの返答がないことを訝しんで顔を上げ、「此処には私が残ってるから」と加えた。
どうせ手伝う気ないんでしょ、の言葉に私と前田は同時に唸る。
「分かってないね」
「手伝う気はさらさらないけどさあ」
前田は足を組み、私は髪を耳に掛ける。
「わたしらはさ、」
「きみがいなければ行事を楽しむ気が起きないんだ」
なによそれと呆れた顔をする井苅の前で「あとはこの人の抜け駆け防止」と互いを指した。
五、文化祭
文化祭は割と楽しかったと思う。
帰宅部の私でもクラスの催しには幾らか顔を出したから、提供側として不参加という状態にはならなかったし、具合い良く時間をずらして組まれている我が校三大アイドル部のステージや公演をプログラム毎に追って騒いでいれば退屈しなかった。
文化祭は確かに楽しかったと思う。
それが生徒会長の計らいのお陰だとは認めたくないだけだ。
踊り場のポスターをはがしながら私は階段の三段目に腰をかけて先程から無意味な話を紡いでいる伊集あゆなを見る。文化祭片付け日として設定された休日、校内に人の気配はするものの準備日ほどの盛り上がりは見られない。自分の仕事はないのと尋ねると彼女はベビーフェイスにいっぱいの笑顔を浮かべた。
「休憩中。いまは志乃のために割いた時間なの。もっとわたしの話に食い付いてよ」
伊集あゆなは失礼にも指を突きつけてくる。この様な行動が似合ってしまう無邪気さと、サボリ魔の癖に本気で嫌われない人間性を湛えた彼女が、私は羨ましくて気に食わない。
「そろそろ一年になるよ」
伊集あゆなは立ち上がり、私の横に並んでポスターをはがし始めた。紺のセーラーに映えるチョコレートブラウンのショート。
「……背、高くなった?」
それでも私には五センチほど及ばない。
「話、してるんだけど」
「ああ、ごめん。なにが一年なの?」
「わたしが志乃に固執するようになって」
こうした口説き台詞を彼女は度々投げてくるが、気まぐれ一つで構成されている人間だ、明日には私への興味を一切失っているかもしれない。
そんな明日を想像するたび私は落ち着かなくなり、無愛想になる。
「牛乳効果でようやく身長百五十。あと五センチほしいの」
「ふうん」
「志乃より背が低いなんてやだもん」
伊集あゆなは背伸びをして私を追い越そうとした。
「背なんて関係ないじゃん」私が呟くと、彼女は「どういう意味?」とにやにや笑う。不愉快に「意味なんかないよ」といってみせても、伊集あゆなのごめんは明るくて、肚が立った。
「文化祭、大成功だったでしょ。開催式で二年の子がバク転失敗しちゃったのは可哀想だったけど。でも志乃、楽しかったでしょ」
私は視線を逸らして少し黙る。
「……うん、楽しかった」
「その一言を、見下ろしながら聞きたかったの」
伊集あゆなは階段を一つ上り、逃れがたいハスキーで私を呼び寄せた。
この位置関係だよと落とし、目を瞑るよう指示する。彼女の長くない指が、私の髪を掬った。
私は唇を結び、眉を寄せ、しかし、目を閉じる。