07.『殿下』はお気に召さないようです
ミレイナはセドリックに会う以外はほとんど出かけないのが常だ。身体を動かすことも社交も苦手だった。
同じ年代の令嬢から来るお茶会の誘いはセドリックとの一時間と時間が被っていることが多く、いつもセドリックを優先させてきたのだ。
つまり、あまり友人はいない。王都のデートスポットの情報などほとんど知らないに等しかった。
しかし、年上の威厳を見せるためにも、いや、今後のヒロインとのデートを成功する鍵を握っているのはミレイナしかいないのだ。
ミレイナは数少ない情報の中から、王都の端にある湖へと向かった。
馬車で四十分。景色を見ていればあっという間だ。
そう、あっという間。
「殿下、牛がいるわ」
都心から離れるにつれて、普段は見ないものが見える。ミレイナは、牧草を食べる牛を差して弾んだ声で言った。
エモンスキー公爵家に馬はいるが牛はいない。
ふだん見かけない動物を見るとワクワクする。
セドリックはつまらなさそうに牛を一瞥すると、ミレイナに視線を戻した。
「ねえ、ずっと『殿下』って呼ぶつもり?」
セドリックの言葉の意図がわからず、ミレイナは首を傾げた。殿下は殿下だ。見慣れない金の髪が太陽の光を浴びてキラキラと光っている。
セドリックは痺れを切らしたように口を開く。
「ミレイナが僕のことをそんな風に呼んだら、変装した意味がないだろ?」
「本当だわ……! わたくしったらうっかり」
店も貴族を相手にするのは慣れていても王族となると話は別だろう。店員が極度に緊張してしまってはセドリックも楽しめないはず。
「なんと呼んだらいいのかしら? 坊ちゃん?」
彼はあからさまに嫌な顔をした。最近、彼は子ども扱いされるのを嫌がる。
「そんな目で見ないで。なら、若様はいかが?」
「……セドリックでいい」
「名前を呼ぶなんて不敬だわ」
「今更、不敬も何もないだろ」
「そうかもしれないけれど……」
敬称もつけずに名前を呼んだなんて知られたら、いつも甘い両親だって怒るに違いない。
(この年で怒られるのはいやよ)
もう二十三歳。分別のわかる大人だ。子どものように叱られる年ではない。
「これは勉強だろう?」
「そう、なのかしら?」
確かに教えるとは言ったけれど、デートとは勉強するようなことではないと思うのだが。こういう時のセドリックは頑固だ。
「勉強なら不敬にはあたらない。そうじゃないと正しいことは教えられないだろ? ミレイナ先生」
「そうやって都合のいいときだけ先生って呼ぶんだから……」
ミレイナは小さくため息を吐く。
「ほら、呼んでよ。セドリックって」
「外だけでいいでしょう?」
「ミレイナは抜けているところがあるから今から練習しておいたほうがいい。ほら。誰にも言わないから」
「……リック」
「小さくて聞こえなかった。もう一回」
「意地悪なんだから」
意識的に呼び方を変えるというのはこれほどに恥ずかしいものなのだろうか。今まで、無意識に『殿下』呼んでいた。
八年間貫いてきた呼び方を一日とは言え変えるのはやはり気恥ずかしいものだ。
「セドリック……」
どうにか名前を呼ぶ。蚊の鳴くような声ではあったが。
次はしっかりとセドリックの耳にも入ったようで、彼は満面の笑みで笑った。
「合格」
ただ名前を呼んだだけなのに、彼は嬉しそうだ。
「絶対に秘密よ。お兄様にも言っちゃだめよ?」
「もちろん。だからもっと呼んで」
「そんなにたくさんは無理よ」
「一回も二回も変わらないじゃないか」
何度呼んでも恥ずかしいのは変わらない。つまり、呼べば呼ぶほど恥ずかしさが山のように積もっていくというものだ。
ミレイナはセドリックから目をそらすと、窓の外を見た。
「ほら! 見て! 湖が見えてきたわ!」
景色が変わり、大きな湖が姿を見せた。
王都の中心から馬車で四十分。簡単に行けるため、王都で暮らす貴族たちからは人気の場所だ。気軽に息抜きができるとあって、貴族向けの高級ホテルの他にもレストランやドレスサロンなどバカンスを意識した店が多い。
その中でも、オープン当初から人気を博しているのが湖畔を眺めることができるカフェだ。
有名なデートスポットとして何度も取り上げられているのだとか。
貴族や平民の中で富裕層向けの店になっている。
ミレイナは一度だけ来たことがあった。――兄と一緒に。
本来なら兄夫婦が訪れる予定だった場所だ。義姉が子を身ごもり、つわりがひどくて行けないが予約を流すのはもったいないと嘆いているところ、ミレイナに白羽の矢が立った。
「ここのカフェはね、湖畔が一望できると人気なのよ。お席もプライベートルームみたいになっているの。きっと窓際の席で読書をしたら気持ちがいいわ」
読書が好きなセドリックも楽しめると思う。
彼と会うときはいつも本を読んでいる。常に手元には本があったし、机の上には数冊積みあがっているのだ。
ふだんと違う場所で読書をすると気持ちがいいと聞いたことがある。ミレイナはこの店のスイーツが好きなので、お互いに退屈することはないだろう。
セドリックのエスコートを受けながら、ミレイナはカフェの中へと入っていった。
「お美しいお二人に最高の場所を用意させていただきました」
店員はすらすらと世辞を言うと、席へと案内する。窓の外は湖畔が広がっていた。並んで座れる二人掛けのソファと観葉植物の数々。
数年前に兄と来た時よりも温かみのある雰囲気になっている。
「ここのケーキはね、お花をモチーフにしているの。どれもとってもかわいいのよ」
「へぇ」
「殿……セドリックはスイーツはあまり食べないからいらないかしら」
「飲み物だけでいい」
「フルーツティーがあるはずだから、それを頼みましょう。さっぱりしていておいしいの」
メニューを見ると、新しい商品も増えている。ミレイナはあれも食べたい、これも食べたいと頭を悩ませた。
ほとんど屋敷にいるかセドリックのところかの二択なせいで、カフェはご無沙汰だったのだ。
「やけに詳しいな」
「だって、二回目だもの」
並んで座っているせいで、セドリックの肩とぶつかる。二人がけの柔らかいソファだから、二人の身体の重心がソファの真ん中に集まるせいだろう。
「……誰と?」