36.王族の薔薇
「どうして?」
「さっきからミレイナはそればっかりだ」
「だって、ここは王都ではないわ」
フリック家の領地は王都から馬車で七日。王族の力を使っても、それは変わらない。
「そんなの、決まってる」
セドリックは不機嫌そうに眉根を寄せた。そして、ミレイナの耳元に唇を寄せる。
「ミレイナが逃げるから」
その言葉に、ミレイナは再び目を丸める。
「そ、そんなことで……?」
「そんなことって。ミレイナが逃げるから予定が全部崩れたんだ」
「予定って?」
セドリックはミレイナの胸にずいっと薔薇の花束を押しつける。
ベスタニカ・ローズの強い香りに包まれた。
「ミレイナが帰って来るのを待ってたら、全部枯れるところだったから」
「こんな大切な物をどうして……?」
「どうしてって……。そんなのプロポーズのために決まってる」
セドリックは膝をついて、ミレイナを見上げた。
「ミレイナ。君が来ない日は調子が狂う。いつの間にか、君が隣にいる一時間が一日の中で一番になっていた」
黒の髪が月明かりを浴びた優しく輝く。
「だから、ミレイナ。……いや、ミレイナ嬢。僕の伴侶になって。一時間じゃなくて、ずっと僕の隣にいて」
枯れかけのベスタニカ・ローズ。
繊細な薔薇が長旅を生き抜くのは大変だっただろう。
視界がぼやけた。こみ上げてきた涙をミレイナは慌てて拭う。
「わたくしがこの薔薇を受け取ったら、セドリックは他に好きな人ができても、結婚できなくなるのよ?」
ベスタニカ・ローズは王族の薔薇だ。
初代の国王が王妃にこの薔薇を捧げて以来、王族のプロポーズにはこの薔薇が使われてきた。
慣習というだけではない。
王家では、相手が薔薇を受け取った瞬間から、契約以上の強い効力が生まれると考えられてきている。
この先、セドリックがシェリーを好きになったとしても、ミレイナを簡単には捨てられなくなるのだ。
ミレイナは王都に帰ったら、すぐにでもセドリックに自分の気持ちを伝えるつもりだった。だから、彼のプロポーズは嬉しい。
すぐにでもこの薔薇を胸に抱きたかった。
けれど、振られるつもりだったから、喜びと不安が一気にミレイナを襲う。
本当に大丈夫? セドリックの一時の迷いではない? そんな不安がミレイナの手を止めるのだ。
セドリックは顔を歪めた。
なかなか薔薇を受け取らないミレイナに対し、彼は小さくため息を吐くと立ち上がる。そして、ミレイナの顔を覗き込んだ。
「僕は尻軽じゃない。ミレイナに振られたら生涯独身でいい。でも……」
「でも?」
セドリックがニッと歯を見せて笑う。
「ミレイナがそんなに不安なら、僕を閉じ込めて、ミレイナしか見れないようにしてよ」
「と、閉じ込めるだなんて……っ!」
「いい案でしょ?」
彼は意地悪そうな笑みを浮かべたまま、ミレイナの手を取った。
冷えた手に、彼の唇が触れる。
「僕はミレイナしか見ない。だから、ミレイナも僕だけを見て。この薔薇を受け取って、僕の伴侶になるって言ってよ」
彼のアメジストの瞳がまっすぐミレイナを捕らえたまま離さない。
(怖がっているばかりじゃだめ。覚悟を決めなきゃ)
いつだって、何かを決めるときは不安や恐怖がついてくるものだ。
ミレイナはぎゅっと彼の手を握り返した。
「わたくし、セドリックが好きよ。誰よりも好き」
「うん」
「だからとても怖いの。これから社交場に出るようになって、たくさんの人と出会うようになったときに、セドリックが後悔しないか」
原作とは違う道を歩んで、彼は幸せになれるのか。とても不安だ。そして、もっと怖いことがある。
「もし、セドリックが新しい恋をしたら、本当に閉じ込めてしまうかもしれないわ」
悪者になったとしても。どんな手を使っても、ミレイナはセドリックを離せないかもしれない。
「それでもいいの?」
「もちろん。そもそも前提条件が間違っている。僕の目にはもうミレイナしか映ってない。ほら、見てよ」
紫色の目にはミレイナしか映っていない。「……屁理屈なんだから」と、ミレイナは頬を膨らませた。
「もう一度言う。僕の人生はこの先ミレイナに捧げるから、僕の隣で笑って。泣いて。怒ってよ」
再び薔薇の花束を差し出され、ミレイナはまじまじと見つめた。
紫の瞳が不安そうに揺れる。不安なのは、セドリックも同じなのだろうか。
そう思うと、ミレイナの気持ちも少しだけ軽くなる。
(原作に逆らうことになったとしても、セドリックの側にいたいの)
ミレイナはゆっくりと花束を受け取った。
「その……ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
ミレイナが控え目に言うと、セドリックの頬が緩む。そして、腹を抱えて笑った。
「何そのまぬけな返事」
「だって……。それ以外に思い浮かばなかったの! 仕方ないでしょう? プロポーズなんて初めてなんだもの」
「ミレイナらしくていいけどね」
セドリックがあまりにも揶揄うものだから、ミレイナは頬を膨らませるしかなかった。年長者らしく、もっと素敵な言葉を返すつもりだったのに。
楽しそうに笑っていた彼が、急に真面目な顔でミレイナを見下ろした。
「ミレイナ、愛してる。ミレイナは?」
「もちろん、わたくしもセドリックのことが大好き。愛しているわ」
セドリックは嬉しそうに笑うと、ミレイナから薔薇の花束を奪って、椅子に転がした。
彼がミレイナの腰を抱き寄せて、花束が消えてできた空間を埋める。
彼の長い睫毛が数えられそうなくらい近づいて、ミレイナは瞼を落とした。
重なった温もりと、二人を包み込む高貴な香り。
きっと、毎年ベスタニカ・ローズが咲くと思い出すだろう。
◇◆◇
ミレイナとセドリックは、同じ馬車で帰路についた。
ミレイナの部屋にベスタニカ・ローズがあったことで、セドリックとの婚約があっさりと広まったのは言うまでもない。
あのパーティーの夜、ビルはみんなにたっぷりと怒られたらしい。そして、何よりもサシャとの婚約も白紙になったのだという。
きっと、彼は王都に帰ってから、叔父たちに更に怒られることだろう。
「ねえ、セドリック。どうして、あの夜エデンの丘にいたの?」
「ん? ああ、これに書いてあったから」
セドリックは内ポケットから見覚えのある手紙を取り出した。――ミレイナがセドリックに宛てた手紙だ。
「どうしてそれを持っているの? 王都に持って行ってもらったはずよ?」
「途中ですれ違ったから。エモンスキー家の紋章が付いてたからすぐにわかった」
フリック家と王都を結ぶ道は何本かあるが、最短距離を選ぶと同じ道になってしまう。セドリックとエモンスキー家の馬車がすれ違うのは必然だ。
「先生の言うとおりの場所でプロポーズをしたんだから褒めてよ」
「も、もう先生じゃないわ」
「そうだった。もう、ミレイナは先生でも友達でも姉でもなく、僕の綺麗で可愛い婚約者だった」
セドリックが嬉しそうに頬を緩める。彼の幸せそうな笑みを見ていると、ミレイナの胸もいっぱいになる。
彼はミレイナの顔を覗き込んだ。
「ねえ……。キスしていい?」
「そっ! そんな突然っ……!?」
頬が熱い。
恥ずかしさで気絶してしまいそうだ。
(そ、そんな風に育てた覚えはないわ!)
こんなに艶のある彼をミレイナは知らない。
いつも彼はツンケンして、ミレイナに冷たく当たるのが常だった。もちろん、そのほとんどが本気ではないことは、原作の知識から知っている。
「……ダメ?」
「だめ……では、ないわ……」
不安そうな表情で見られて、だめとは言えなかった。
彼は満足そうに笑みを浮かべると、ミレイナに顔を寄せる。
「ほら、目を瞑ってよ」
鼻がぶつかりそうな距離で言われて、ミレイナは固く目を閉じた。彼の鼻息が掛かる。
ミレイナとセドリックは揺れる馬車の中で、長い長い口づけを交わした。
FIN
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
皆様のブックマークや★、いいね、感想などに励まされながら、最後まで書き切ることができました!
感想のお返事を書く余裕がないのですが、全部読ませていただいております。
そして、もう少し後日談など書けたら……と思っています。
五月中は忙しいので、六月に入ってから……と考え中なので、ブックマークをして待っていただけたら嬉しいです。