35.エデンの丘
ミレイナがビルを見放すとは考えてもいなかったのだろう。
ビルは一人っ子であり、跡取りだったから、叔父や叔母に大切に育てられた。そして、ミレイナやウォーレンも弟のように可愛がってきた。
少し、甘やかしすぎたのかもしれない。
ビルは床に膝をついて呆然とミレイナを見上げた。
「そんな……。俺、ここに来れば殿下がいないから、みんなが姉さんと話す機会ができるって言っちゃったんだ……」
ミレイナは膝を曲げてビルに視線を合わせる。そして、優しく微笑んだ。
「そう。なら、きちんと『嘘でした。ごめんなさい』と謝って回りなさい」
ビルはそれ以上何も言わなかった。諦めたと取っていいだろう。ミレイナはサシャにもう一度挨拶をしたあと、颯爽と出口に向かって歩いた。
いつの間にかオーケストラの音楽すら止まっている。誰もが呆然とミレイナの歩く姿を目で追う。
ミレイナは人前で従弟を叱りつけた興奮と羞恥でいっぱいいっぱいだった。
「ミレイナ嬢! 屋敷までお送りする権利をいただけませんか?」
誰もが動きを止める中、アンドリューがミレイナを追って走ってきた。彼はどうしてもミレイナとの縁を繋げたいらしい。
彼の金の髪が揺れるたびに、セドリックの変装したときの姿を思い出す。
どこからか、花が香った。
(金髪も殿下のほうが似合っていたわ)
早く、セドリックに会いたい。こんな男を相手にしている暇はなかった。
セドリックに会いに行くには今後の予定を変更し、帰宅の準備をしなければならないのだ。
「わたくし、心は狭いほうですの」
「私ならどんなあなたも受け止められます」
「でしたら……。前世からやり直していただけますか?」
「……へ? 前世?」
「ええ。前世からやり直して、わたくしが“推し変”するくらい素敵な男性になってからお会いしましょう?」
「お、おしへん……?」
困惑するアンドリューにミレイナは満面の笑みを浮かべた。
(今になってやっとわかったわ。わたくしは殿下が……セドリックが好き)
それに気づくのは遅すぎた。セドリックは原作でシェリーと結ばれる。それを知っているから、いつも彼は弟のようなものだと言い聞かせていたのだ。
ミレイナは嘘をつくのが苦手だ。自分の気持ちに気づいてしまった以上、それを隠して他の人と結婚することなどできそうにもない。
貴族なのだから、家の利害関係だけで結ぶ婚姻もあるけれど。
エモンスキー家にはそんな繋がりを重視した結婚が必要ではなかった。
ミレイナの気持ちを第一優先にして相手を選べと言われたら、誰も選べなさそうだ。
(セドリックに気持ちを伝えて……。それから……)
きっとミレイナに勝ち目はないだろう。それでも、当たって砕けなければ次には進めそうにもなかった。
城から出ると、空には綺麗な満月が浮かんでいた。
花の香りがふわりとミレイナを包み込む。花畑があるせいか、複数の花の香りが混じっていた。
「あら……?」
風で吹かれた花片が、ミレイナのドレスに引っかかる。真っ赤な薔薇の欠片だった。
「エデンの丘にも薔薇が咲いているのかしら?」
ミレイナは辺りを見回した。しかし、薔薇は見当たらない。遠くから遊びにきたのだろうか。
ミレイナはエデンの丘に向かった。
古城の奥の狭い通路を通ると、エデンの丘に繋がる。ミレイナはエデンの丘の入り口で、足を止めた。
「また見つけた」
足元に二枚目の花片を見つけて拾い上げる。真っ赤な薔薇の花片を鼻に近づけた。
強くて上品な香り。
「これって……」
ミレイナはまじまじとその花片を見つめた。
(そんなはずないわ。だって、あの薔薇はここにはないもの)
ミレイナはこれとよく似た薔薇を知っている。
ベスタニカ・ローズ。
それは王家の薔薇と呼ばれ、王宮の庭園でしか育てられていない薔薇だ。苗を持ち出すことは許されず、それが露見すれば処刑されてしまう。
ミレイナの胸がざわめく。
思わず、駆けだした。
また一枚、風に揺れる花片を拾い上げ、坂を駆け上がった。
エデンの丘には大きなガゼボが建っている。
屋根の掛かっていない骨組みだけのガゼボは、見上げた時に美しい星を楽しめるようにという思からだそうだ。
花畑の真ん中に佇むガゼボに人影を見つけて、ミレイナの胸が跳ねた。
「……セドリック?」
絶対にあり得ない人の名前を呼んでしまい、慌てて両手で自身の口を押さえる。拾った薔薇の花片が風にのって旅立った。
強い薔薇の香り。
やはり、この香りはよく知っている。
人の影がゆっくりと動いて、振り返った。
「ミレイナ?」
聞き覚えのある声に、ミレイナの心臓が騒ぎ出す。声変わりを終えた、大人の男の声だ。
ミレイナは慌てて駆けた。
「セドリック、どうして?」
走りすぎたせいか、驚き過ぎたせいか、うまく声が出ない。
いるはずのない人が、こんなところにいるのだから驚くことしかできなかった。
思わず頬をつねる。
これは全部夢かもしれない。旅行で疲れてしまったのだ。
まだミレイナはベッドの中で幸せな夢を見ている。そのほうが納得がいく。
夢でも都合がよすぎるとは思う。
セドリックが薔薇の花束を持ってエデンの丘にいるだなんて。頭の中のあちらこちらに散らばっている願望を、寄せ集めたとしか考えられない。
「夢じゃない」
セドリックが頬をつねっていたミレイナの手を、やんわりと押さえる。ミレイナは呆然と見上げた。