30.虫の知らせ
セドリックが王都を出ることができたのは、あれから二日後のことだ。
馬車の中はベスタニカ・ローズの香りが充満していた。
セドリックの前にはベスタニカ・ローズが鎮座し、その横で従者が小さくなって座ってる。彼は頑なにセドリックと同乗することを拒んだが、急ぎ向かう必要があったため、セドリックが無理矢理押し込めたのだ。
馬車はほとんど休みなく走っている。途中の街で馬を替え、夜通し走ることもあった。馬車に酔った従者は青い顔をしながら外を眺め、セドリックはミレイナに思いを馳せていた。
(なぜ、旅行の前に会いに来てくれなかったんだ……?)
幻想に聞いたところで、返事はない。
セドリックは持ち前の観察力の高さで、他の人間は大抵思考と行動を予想することができた。しかし、ミレイナだけは何を考え行動しているのか、まるでわからないのだ。
セドリックの行動に赤面し恥じていると思えば、二人は姉弟のような関係だと突き放す。
こんなに好きなのはセドリックだけなのではないかと絶望していれば、彼女の一番はセドリックなのだと言うのだ。
いつも掴めそうで掴めない。今回だって……。
セドリックは舞踏会の夜を思い出して、頬をなぞった。
「殿下、歯でも痛いですか?」
従者がセドリックの顔を覗き込む。頬ばかり触れているから歯が痛いのだと勘違いしたのだろう。揶揄う雰囲気はなく、本当に心配しているようだった。
セドリックは「いや」と短く否定したあと、真剣な顔で従者に問う。
「……普通、好きでもない男に口づけをするものか?」
「へ? 殿下、まさかとうとうミレイナ様に?」
ガタンッと大きな音と共に馬車が揺れ、二人のあいだに長い沈黙が訪れた。
従者の言葉にセドリックは、再びあの日のミレイナの姿を思い出す。頬にミレイナの唇が触れた瞬間を忘れることができなかった。
「あー。なるほど。ミレイナ様が殿下の頬にキスした理由が知りたいと」
「理由は知ってる」
「なんですか?」
「賭けの罰ゲーム。ミレイナはそう言っていた」
理由自体は間違いないだろう。ダンスの途中で脛を蹴ったことに対する贖罪だと考えていてもおかしくはない。
しかし、例え罰ゲームであれ、好きでもない男の頬に口づけるだろうか。
従者は「うーん」とわざとらしく唸った。
「普通に考えて、嫌いなら罰ゲームを回避したんじゃないですかね。まあ、客観的にミレイナ様は殿下のことは嫌っていませんよ。それはわかります」
彼の言葉に、セドリックは満足そうに頷く。しかし、すぐに彼は「でも」と話を続けた。
「まあ、でも弟だと思っている可能性もありますからね」
「……弟」
セドリックは低い声で従者の言葉を反芻した。弟と言われるのが一番嫌いだ。ミレイナを姉だと思ったことはないし、姉のように接したこともない。
姉弟のようだと言われたくなくて、背が伸びる方法を必死に調べたこともある。
「ミレイナ様は殿下の十歳から知っておりますから」
「でも、僕はもう十八だ。身長だってミレイナより高いし、仕事もしてる」
ミレイナを守れるだけの力も知識もつけたというのに、十歳からの付き合いだからという理由で恋愛対象として見られないのは理不尽だ。
「まあまあ。この薔薇を見たら、ミレイナ様も殿下の本気度を理解しますって。陛下を説き伏せるのに頑張ったんですからね」
セドリックは口をへの字に曲げると、窓の外を見た。森の中を駆けているせいか、景色はほとんど変わらない。
ベスタニカ・ローズの香りだけが充満する中で、セドリックは小さく頷いた。
王族の薔薇を持ち出すのには許可がいる。それは王子であるセドリックも例外ではない。本来ならば、薔薇が咲く時期までに許可を取り準備するものだという。しかし、来年まで待てないと何度も父の元に通い、頭を下げたのだ。
ふだん我儘を言わない末の息子の我儘に、父である国王はひどく悩みながらも許可をしたのだった。
詳しく聞けば、ベスタニカ・ローズを使ったプロポーズは、王族として正式な結婚の申し込みとなるらしい。
その薔薇を受け取った瞬間、二人は婚約を結んだのと同じと考えられるのだ。
どんなに鈍感なミレイナでも、そこまですればセドリックの本気を理解するだろう。
軽い気持ちでミレイナに思いを伝えていないのだと理解してもらえれば、それだけでよかった。
もちろん、一番はその薔薇を受け取って、セドリックのプロポーズを受けてもらうことではあるが。
「もっと馬車は速められないのか?」
「今、全速力ですよ。そのせいで私の胃の中はぐちゃぐちゃです」
「馬車の中で吐くなよ」
「はあ……。もっと優しい主人に仕えたい……」
従者は目元を押さえて、馬車の窓にもたれかかった。
休憩を取った街で、食事を摂っている際、従者はセドリックに一枚の紙を渡す。
「殿下、調べさせていた結果が届きましたよ」
セドリックは報告書を読んで眉を寄せた。
王都を出る前、ここ数日でフリック家の領地に旅行に出た貴族がいないか調べさせたのだ。
報告書には十数名の貴族の子息たちの名前が並んでいた。
全員が、二十代の未婚の男たちだ。
「偶然にしては多いですよね」
「偶然なわけないだろ?」
フリック家の領地がいくら観光地だとしても、同じ日にこれだけの人数が移動することはあり得ない。
「来て正解だった」
セドリックは不機嫌な顔のまま、報告書を握り絞めた。食事も半ばだったが、馬車へと向かった。
「急ぐ」
「……そういうと思ってました」
従者は苦笑を浮かべ、セドリックの後を追ったのだ。