27.仮病
そのあとのことはあまりよく覚えていない。
逃げるように帰ってきてしまったからだ。顔が耳まで真っ赤だったらしく、「体調が悪い」というミレイナの言葉を誰もが信じてくれた。
気がついたら、ベッドの中にいたのだ。いつもの寝間着と黒猫をモチーフに作られた大きな抱き枕。
ミレイナは抱き枕をぎゅっと抱きしめた。
(わたくしったらなんてことを……!)
罰ゲームは練習中の話で、今日は関係ないと自分の中で決着がついていたはずだ。セドリックに言われてもとぼけて流すこともできた。
それなのに、ミレイナは自らの意志で彼の頬に口づけてしまったのだ。
頬の柔らかい感触を思い出して、ミレイナは抱き枕を更に強く抱きしめる。腰の部分が潰れて苦しそうだったが、気にしてはいられなかった。
(一人だけ罰ゲームを逃れるなんてできなかったの。そうよ。先生として約束は守るところを見せたかっただけよ)
何度も言い訳を考えた。
そう、あの口づけは責任感から。
本当に?
頬へのキスなんて挨拶みたいなもの。家族にだってする。セドリックからミレイナにしたことだってある。
何を恥ずかしがる必要があるのか。
何度も何度も自分に言い聞かせていたら、朝になってしまった。
太陽の光がカーテンの隙間から入って来たころ、アンジーがいつものように扉を開ける。
「お嬢様、おはようございます。よいお天気ですよ」
「おはようアンジー」
「お嬢様、目の下に隈がくっきりですよ。大丈夫ですか?」
「なんだか寝つけなくて」
綿が寄れた抱き枕をもみながら、ミレイナは呟いた。一度考え出したら止まらなかったのだから仕方ない。
寝ることに集中しようにも、目を閉じても閉じなくても、昨夜のセドリックが頭から離れないのだから。
「昨日はお疲れでしたのに。今日はゆっくり休んではいかがですか?」
「そうね……」
ミレイナは毎日セドリックの元へと通う。今日も変わらず行くつもりでいた。しかし、今はどんな顔をして会っていいかわからない。
「今日は何もせずにゆっくりするわ」
仮病を使うことは気が引けたが、それ以上に気まずさが勝った。
ミレイナは自身の唇をなぞる。
昨日のセドリックの驚いた顔、柔らかな頬、強い香りのベスタニカ・ローズ。全部がよみがえってきて、ミレイナは再び抱き枕を抱きしめた。
◇◆◇
それから数日、ミレイナは毎日仮病を使っている。
一回行かないと足が重くなるもので、なかなかうまくいかない。一度、セドリックから会いに来た日があったが、それも「風邪をうつしたら大変だから」と言って追い返してもらった。
実際には風邪も引いていないし、どこも悪くはない。いたって健康だ。
家族は何も言わずにミレイナの嘘に付き合ってくれている。王宮で会ったセドリックの質問もはぐらかしてくれているようだ。
セドリックからは毎日、見舞いの花だけが届く。いつもであれば無理にでも会おうとしただろうから、随分と大人になったのだろう。
けれど、少し寂しくもあった。セドリックが一人の大人として自分の元から離れていっているようで。
「お嬢様ったら、まだ仮病を押し通すおつもりですか? もう五日ですよ」
「そうなんだけど……」
ミレイナは抱き枕に顔を埋める。
「そういう気分の時があっても仕方ありません。けれどあまり長引かせると、殿下が騒ぎ出すかもしれませんよ?」
「そんな……。殿下はきっと気にしていないわ」
ミレイナは子どものころから時々ひどい風邪を引くことがあった。そういときは決まって十日ほどは寝込むので、セドリックも「またか」と思って気にしていないだろう。
「殿下を侮ってはいけません。殿下はお嬢様のことを大変愛されておりますから」
「愛だなんて。ただ、八年も遊び相手をしていたから姉弟のように慕ってくれているだけよ」
こういうのは、勘違いをすると痛い目に合うのがセオリーなのだ。言うならば、ミレイナはセドリックにとって、少し年の離れたただの幼馴染。
異母兄弟たちとは仲良くなかった分、ミレイナに懐いた。ただ、それだけだ。シェリーとの出会いを果たした今、ミレイナの役割はそう多くない。
(たしか、シェリーは病気で寝込んでいる義理の姉に頼まれて、王宮の庭園に忍び込むのよね。そこで殿下と再会を果たすの)
その出会いがきっかけで二人の恋が動くのだ。
最初は夜会のパートナーだっただろうか。多くの家からの打診に嫌気がさして、シェリーにパートナーの話を持ち掛ける。わざとらしいお揃いの布で作ったドレスを着て。
胸のあたりが痛い。ぎゅっと絞めつけられるような、重たい石でも入っているような苦しさ。ミレイナは胸を押さえた。
二人が並んでいる姿を楽しみにしていたのに、今は気が重い。
「お嬢様、もしかして、この前の舞踏会で殿下と喧嘩でもなさいましたか?」
「殿下と喧嘩だなんて……していないわ」
「では何か嫌な思いでも? 表情が暗いですよ」
「そうかしら? 嫌なことなんてなにもないわ」
ただ少しだけ、先日の夜のことが後ろめたいだけ。
これから別の女性と愛を育むことを知っているのに、頬とはいえ口づけてしまったのだ。
「そういえば、今日も招待状が届きましたよ」
「お茶会のお招待ならお断りしておいて。そういう気分ではないのよ」
「それが、お茶会のお誘いではないようで」
アンジーがミレイナの前に手紙を一通差し出した。送り主はサシャ・フリック。見慣れない名だ。
ミレイナは首を傾げる。
「どなただったかしら?」
「ビル様の婚約者の」
「お会いしたことがなかったから、名前までは憶えていなかったわ」
ミレイナはサシャの名前を反芻しながら、手紙を開ける。
内容はフリック家の領地への招待状だった。この時期はちょうどたくさんの花が咲いていて、自然を楽しむことができる。「ビルが姉のように慕うミレイナ様と一度、お会いしたいと思っていた」と綴られていた。
「お返事はいかがなさいますか?」
「そういえば、ビルにも誘われていたの。こうしてご招待してくださっているし、遊びに行こうかしら」
「そうですよね。フリック家はここから大変遠いので、お断りのお手紙をお送りしておきま――えっ!? 行かれるのですか!?」
「ええ。たまには旅行に行くものいいじゃない?」
「は、はあ……。ですが馬車の旅は大変ですよ?」
「大丈夫よ。さっそくサシャさんとビルにお手紙を書くわ。レターセットを用意して」
ミレイナは立ち上がると、机に向かった。最近はずっとベッドの上でゴロゴロしていたから、身体がなまっている。
きっと、ミレイナが戻ってきたころには、二人の仲も深まっていることだろう。そうしたら、もうセドリックはミレイナのことなど忘れているに違いない。