12.セドリックの最初で最後の恋3
セドリックが十歳のときに出会ってから、二年の月日が流れたころ。
二人の関係に変化はなかった。少し、セドリックの身長がミレイナに近づいたくらいだろうか。
「はあ……」
「さっきからうるさいんだけど」
ミレイナの何度目かのため息で、セドリックは本を閉じた。彼女の眉尻は弱弱しく下がっており元気がない。
「社交デビューの日が近づいてきたじゃない? 憂鬱でしかたないの」
「別にただドレス着て挨拶するだけだろ?」
貴族の家に生まれれば、いつかは通る道だ。たとえ、ミレイナが人見知りだとしてもこればかりは仕方ない。
こういう時、五歳という年の差をもどかしいと思った。社交デビューが許されるのは早くて十五歳。そして、王都に住む貴族の子は十八歳までには社交デビューを済ませてしまう。
それ以上遅くなれば病気や他の問題を疑われる。
セドリックが社交デビューできるのは最低でも三年後で、そこまで彼女を引き留めることは難しかった。
どんなに勉強ができても意味はない。国政に関わろうと、まだ十二歳という年齢では子どもだと見られてしまうのだ。
「さっと行ってさっと帰ってくればいい」
「そう簡単でもないのよ。どの世界でも新人って肩身が狭いものなの」
「エモンスキー公爵家の令嬢が肩身の狭い思いをするわけあるか」
エモンスキー公爵家に逆らえる家などほとんどないというのに、何を怖がる必要があるのか。家の名前に胡坐でもかいて大きい顔をしておけばいい。
それが許される数少ない令嬢であることを、彼女は理解していなかった。なぜ彼女はいつも自分を卑下するのだろうか。
特別なものなど何も持っていないとでも言うかの如く。
誰にも劣らない素晴らしい家柄と、母親譲りの美しい顔立ち。飾らない人柄。
まだ社交デビュー前だというのに、ミレイナの評判を耳にするようになった。
「はぁ……。ずっとここにだけいられればいいのに」
「いたいならいればいい。匿ってやる」
「ふふ……。殿下が社交デビューするまでここに匿ってくださる?」
「三年くらいなら隠してやってもいい」
「ありがとう。殿下のおかげで気が楽になったわ」
ミレイナは笑みを浮かべた。
彼女は冗談に取ったようだが、本当に三年くらいならセドリックが住まう王子宮で匿うことくらいできる。
セドリックが側で守れるようになるまで、誰の目にも届かない場所に隠してしまえたらどんなにいいだろうか。
ミレイナはエモンスキー公爵家の令嬢だ。エモンスキー家にはウォーレンとミレイナの二人しかいない。公爵家と繋ぎを作るには結婚が一番手っ取り早い方法と言えよう。
彼女には婚約者がいない。公爵夫妻は縁談を全て跳ねのけ、『結婚相手は本人に任せるつもりだ』と言って回っているようだ。
社交デビューしたら、選ばれたい男たちがたくさん現れるだろう。
「やっぱり、ミレイナは社交デビューなんかやめたほうがいい」
「まあ、どうして?」
「運動が苦手だろ? ダンスをしたら人を怪我させる可能性がある」
「それは……そうかも。練習に付き合ってくれたお兄様の脛がね、真っ青なの」
ダンスの練習のせいで筋肉痛だと愚痴をこぼしていた時期があった。いつもお喋りなミレイナがダンスの練習の話題だけは避けているようだったから、よほど苦手なのだろう。
「なら、ファーストダンスだけやって逃げてくれば?」
デビュタントのファーストダンスは婚約者がいない場合、親や兄弟、親族が担う。
ならば練習相手になったウォーレンが有力だろう。
「そんなことをしていいのかしら? ダンスや礼儀作法の先生から『たくさんの人と踊りなさい』って言われたのよ」
「ミレイナの体力じゃせいぜい一人か二人だろ?」
「今はもう少し体力ができたはずよ」
三曲なら……と、ミレイナは小さく言った。二曲が三曲に増えたところで何も変わらないと思うのだが。
どうやったら彼女が他の男とダンスをするのを止められるのだろうか。まだ社交場に出ることも許されない身でできることなどあるのだろうか。
きっとドレスを着て、夜会に参加する彼女は今以上に綺麗なのだろう。
ミレイナの社交デビューが決まってから、彼女は忙しそうにしていた。それでも、セドリックの元には訪れることをやめない。『無理してくる必要はない』と言った口で、『明日も来るのか?』と聞いて。
デビュタントの準備は多岐に渡るようで、眠る時間も惜しんでいるようだ。セドリックの横でいつもニコニコ笑っているだけだったミレイナが、真剣に貴族名簿を読みこんでいるのは不思議な光景だった。
夜会当日。
セドリックは熱を出した。
デビュタントであるミレイナは朝から準備に追われているはずなのに、いつもと同じ時間にセドリックに会いに来たらしい。
従者に言って追い返してもらった。こんな大切な日に、セドリックに会いにくる余裕なんてあるはずがない。ミレイナはそこまで器用な人間ではなかった。
きっと、無理に時間を作って来たのだろう。それなのに、風邪をうつしてしまったら目もあてられない。セドリックですら辛い熱なのだ。体力のないミレイナであればもっと苦しむだろう。
吐く息の熱さに耐えながら、セドリックは眠りについた。
そのあとどのくらい眠っていたのかはわからない。
ひんやりと冷たい何かが額に乗った感触で目が覚めた。
氷ほど冷たくはない。けれど、その柔らかな感覚が妙に優しくて心地よかった。最初からこれを使ってくれればもっと楽に過ごせたのにと、心の中で悪態を吐きながらゆっくり目を開ける。
暗がりの中に浮かんだ金の髪。
「ミ、レイナ……」
思わず、ミレイナの名前を呼んだ。今日は追い返したはずだというのに。
「目が覚めましたか? お医者様を呼んできますね」
離れて行く手を思わずつかむ。
「なんで……」