10.セドリックの最初で最後の恋1
セドリックは眠ったままのミレイナを抱き上げ、馬車を降りる。
カフェで眠りこけた彼女は、まったく起きなかった。カフェから馬車に移動した際も、馬車の揺れの中でもあどけない寝顔を見せたままだ。
はじめは寝ているふりでもしてセドリックを困らせているのかと思ったが、どうやら本気で眠っているようだった。
安心しきっているのか、無防備な寝顔でセドリックに身体を預ける。そんな姿すらいとおしく感じ、彼女が起きないように馬車をゆっくり走らせた。
「お疲れでいらっしゃったようですね」
「疲れてるなら言えばいいのに」
「殿下が無理に押しかけたからでしょうに」
幼いころから従者として側にいる騎士はセドリックに言った。彼はいつも王子であるセドリックにも物怖じせずなんでも言ってくるのだ。そういうところが気に入って、追い出さずにいる。
セドリックはミレイナの寝顔を見下ろした。疲れているならそう言ってくれれば、別日にしたというのに。
ミレイナの予定を確認しているあいだに、またアンドリュー・フレソンのような男がミレイナをかっさらってしまうのではないかと思うと怖かったのだ。
彼女は警戒心がなく、無防備すぎる。
「せっかく一晩で練ったデートプランも全部無駄になりましたね」
「うるさい。あの計画は全部破棄しろ」
「かしこまりました」
エモンスキーの屋敷の中から、数名の使用人が出てくる。
一番に出てきたのはミレイナの側によくいるアンジーというメイドだ。何度か、ミレイナの荷物持ちとして王宮に来ているのを見たことがあった。
ミレイナの話の中にもアンジーはよく出てくる。気が利いて明るい性格だと。
「ミレイナを部屋に連れていくから案内して」
「いいえ、殿下にお手を煩わせるわけにはいきません。今、人を呼んでおりますので……」
「いや、いい。僕が運ぶ」
他人にミレイナを抱かせるなんてことをするわけがない。
セドリックが大股で歩くと、アンジーが慌てて追いかけてきた。
眠っているミレイナを起こしてもよかったが、彼女の部屋がどんな風なのか興味が湧いたのだ。
ミレイナの部屋は公爵家の三階。庭園が一望できる場所だと聞いたことがある。窓を開けると花の香りでいっぱいになるのだとか。
アンジーが扉を開けると、ふわりと花の香りに包みこまれた。
ミレイナからうっすらと感じる香りに似ている。まるで彼女に包み込まれたような感覚にくらくらした。
◇◆◇
ミレイナ・エモンスキーがセドリックの心の中に入り込んだのはいつだったのか。正確な日付は覚えていない。
彼女はいつの間にか溶け込み、セドリックの奥の奥まで入り込んでいた。
最初にミレイナと会ったのは、母の顔を立てるためだ。エモンスキー公爵家は貴族の中でも力のある家門で、『エモンスキー家のお嬢さんと繋ぎを作っておくことは悪いことではないわ』と言った。
あのころの母はセドリックの後ろ盾を作ろうと必死だったように思う。
母は王妃とはいえ、後妻であまり身分は高くなかった。前妻の子が三人もいる中、実の息子の後ろ盾がほとんどないことが心配だったのだろう。
ミレイナと初めて会ったとき、美人だとは思ったがそれ以上の感想はなかった。泣き落としをされたときは、母の顔が浮かんだ。今追い出し、この顔で母に泣きつかれたら面倒なことになると思い受け入れた。
その日から、ミレイナは毎日一日一時間、同じ部屋で過ごして帰っていく。
教師だと言ったが、何か教えられたことはない。ただ、他愛のない話を彼女が一方的にしていくのだ。
「昨日はお兄様の婚約者にお会いしたのよ。とてもシャキシャキした方で安心したわ」
「へぇ」
「王太子殿下も先月婚約なさったでしょう? 殿下はお会いしたことがある?」
「いや」
「まだですのね。お会いしたらどんな方か教えてくださる?」
「気が向いたら」
どんなにセドリックが素っ気ない態度をとっても、ミレイナは嫌な顔一つしなかった。母ですら、『可愛げのない子』とため息をつくというのに。
彼女のいる時間、セドリックは大抵本を読むことにしている。本を読んでいればそこまでたくさん声はかけられない。ふとした時に視線が合う程度だった。
彼女はいつもセドリックを眺めながらお菓子を食べているだけだ。時折一緒に本を読むこともあったが、ほとんどページはめくられていなかったから、おそらく読んではいなかったのだろう。
どんなにつれない態度で接しても、彼女は文句一つ言わずニコニコと笑ってセドリックを見つめるのだ。それの何が楽しいのかはわからなかった。
一つだけ評価できることがあるとすれば、彼女はけっしてわがままを言わないことだ。
一時間という決められた時間だけを消費し、屋敷に戻っていく。今まで何人か友人候補を連れてこられたことはあったが、大抵が「外で遊ぼう」と無理やり腕を引っ張られたりと野蛮な人が多かった。
だから、ミレイナであれば友人として認めていいとすら思ったのだ。
しかし、それは突然やって来た。
毎日来ていたミレイナが突然来なくなったのだ。