はなのしたにてあひまどふ【Alith_Link】
自創作掌編。
ゴドシズとミカゲ。切なめ。蝶に誘われるはなし。
屋敷に詰める家人たちはおろか叢中の虫さえもなりを潜めて眠りにつく宵の刻。
肌身に馴染んだ涼やかな気配が遠ざかっていく感覚。胸騒ぎにも似たさざ波に意識ごとすくい上げられて、ミカゲは目を覚ました。
「……ひぃさま……?」
まだ重たい目蓋を擦りながら身を起こす。
薄闇のもと、障子を透かして差し込む月明かりに、室内の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。視線を向けた寝台の半分は既にもぬけの殻だった。手を伸ばして白絹のしとねに触れれば、枕を並べて寄り添っていたはずの慕わしいぬくもりの名残が指先に伝わってくる。
辺りを見回し、縁側と庭へ繋がる障子戸がほんのわずかに開いているのに気付く。この部屋の本来の主が寝所を後にしてからまだそう時間は経っていないようだった。
「どこいっちゃったの……?」
心細さに揺れる小さなつぶやきに応えは返ってこない。
結界によって外敵から守られているとはいえ、相応の理由がない限りは基本的に夜間の外出はご法度だ。ミカゲ自身、この里の誰よりも危険と隣り合わせの境界線に立つ巫凪──シズハから事あるごとに言い含められている。
それを知りながらわざわざこんな夜更けにかの人が屋敷を抜け出す意図に、ミカゲは思い当たるふしがなかった。もちろん、どこへ向かったのかという見通しもさっぱりである。
できることなら今すぐにでも飛び出して、後を追いかけたいのに。
どうしよう、と途方に暮れかけた視界の片隅で、ふいにふわりと光が弾けた。
幽かなきらめきは形をなし、部屋を包む夜の帳を、少女の朱い瞳をおぼろげに照らす。
「え?」
一体いつ現れたのか。自分の周りを羽音ひとつ立てず舞い泳ぐ闖入者たちを見つめて、ミカゲは目を丸くした。
──白い、蝶。
淡い金の燐光を散らし、月影を濾しとったほのかに蒼白く光る蝶の群れ。実体を持たず常人には触れられない彼らが、純然たる魔力で編まれた意識体──いわゆる精霊種の類いであることを、ミカゲは知識でなく直感で察していた。
白い蝶たちは臆面もなく不規則に飛び回っており、飾りよろしくミカゲの髪で翅を休めるものもいる。その中の一羽が、何気なくもたげた指先にひらりと留まった。
すぐに飛び立つでもなく、少女の答えを待つそぶりで静止を保っている。その反応に得心がいったミカゲは思わず身を乗り出す。
「ひぃさまのところに、連れてってくれるの?」
再びその場で危なげなく舞い上がった光る翅が頬を軽くひと撫ぜする。どうやらそれが首肯の代わりだったらしい。
どこかじゃれつくような動きでミカゲを囲んでいた蝶たちが方向を変え、開いたままの障子の間隙からひらひらと外へ向かっていく。置いていかれそうになり慌てて追随するかたわら、ミカゲは少しだけ相好を崩す。
「……ありがと!」
実際のところ、この『白い蝶』に出くわすのは初めてではない。物心つく頃から彼らは度々ミカゲの前に姿を見せては、示唆めいた意味ありげな挙動をとっていた。言葉を交わす術こそないものの、自分を惑わそうとする邪なものではなく、むしろ親しみ深い存在かもしれないと思わせてくれる不思議な安心感を漂わせるモノたち。その彼らが、今もまた助けになってくれるはずだという予感が確かにあった。
(ひぃさま……)
ともかくとるべき手段は一つだ。物音を立てまいと注意を払いつつ着替えに手を伸ばす。
『……きみには、あのこのかかえるうれいを、しっていてほしいから』
空に散る燐光に紛れて、寂しげにささやく誰かの声を聞いた気がした。
* * *
禁足地──イザヨイの里の西端に建てられた巫凪邸の、さらに奥へと広がる鬱蒼と生い茂った森の最深部。里の守護神として結界の要を司る精霊・白澤が棲まう御座所ともされるこの地では、一般の民は言うに及ばず、里の上層部の人間ですら立ち入りは認められていない。聖域への自由な出入りが叶うのは、原則として白澤と契約を交わした代々の巫凪ただ一人。そして、あえてそこに例外を付け足すとすれば──かの精霊の許しを得た者だけだ。
図らずも自分が掟破りの裏をかく稀有な『特例』のうちに数えられていることなど、まだそのときのミカゲは露ほども思い至っていなかったけれど。
(ここって、ひぃさまがいつもオツトメしてるところだよね……)
ひとまず身を隠した木の陰からこそっと顔を覗かせて、それとなく辺りの様子を窺う。
木々に囲まれ開けた広場状になっている聖域で際立って存在感を放つのは、突き当たりの最奥に鎮座する白藤の樹だ。複数の幹が幾重にも連なり絡み合い、ひとつの大樹の形をなしてうず高く枝葉が広がる。精霊の加護ゆえか一年を通じて咲き続けているのだという白い花房はしめやかに頭を垂れ、月明かりを溶かし込んだ宵闇の下でほんのりと淡く輝いている。
蒼いしじまの降り積もる一帯に人影は見当たらなかった。──大樹を前にして立つしろがねの麗姿、その人を除いては。
(ひぃさま、……!)
喉を突いてこぼれかけた声をすんでのところで飲み込む。
月光を弾いて流れる白銀の髪。碧と金、左右で異なる色に染まる切れ長の瞳。白を基調とした巫凪の装束。昼間の陽のもとで見るときと変わらない浮世離れしたたたずまいで、ミカゲの探し人──シズハは白藤の花を見上げていた。
ゆるりと伸ばされたすべらかな指先が大樹の幹に触れた。頼りなく細めた色違いの双眸に、銀の睫毛がはかない影を落とす。
「……惰弱と謗ってくれてかまわない。あの頃も、今も、わからないままなんだ。
レーユ。私は……」
どうすれば、いいのだろう。
唇を震わせたつぶやきには苦悩がにじんでいた。ミカゲの胸でちり、と小さなひりつきが疼く。
(ひぃさま、……またあの顔、してる)
いつも優しく微笑みかけてはくれるけれど、巫凪を敬い慕う里の人々に囲まれていても、実の子同然に可愛がっているミカゲと二人きりで過ごしていても、シズハの眼差しは悲しげな色を帯びていた。その陰りを差し引いたうえで、かの人にどことなく自らの扱いをないがしろにするきらいがあるのは事実だ。
まるで己を責めるような、あるいは、自分の存在ごとこの世界から消えてしまいたいと願っているかのような──
よぎった益体もない考えを、ミカゲはふるふると頭を振って脳裏から追い出した。
今すぐにでも駆け寄って抱きつきたいけれど、どうしてかそうしてはいけない気がして。その場にしゃがみ込んで再び顔を上げかけたとき、
「やはり、此処にいたか」
朗々と響いた声音が宵の帳を波立たせた。低く深く重厚な、男の声。
シズハの肩がぴくりと揺れる。
少女の気配を覆い隠すべく周囲を取り巻く白い蝶たちが、翅を忙しなく羽ばたかせる。聖域を包む静謐の空気がにわかに変わったのを感じて、ミカゲの体にも驚き半分、好奇心半分で緊張が走る。
(わたしでもひぃさまでもない。ちがう人だ)
体ごと向き直ったシズハの視線を追って目を凝らせば、件の気配の主にはすぐに見当がついた。
大樹の陰からぬっと姿を見せた大柄な人影を視界に収めるやいなや、ミカゲは今度こそまじまじと目を見張った。
(だれ……?)
初めて見る男だった。里の人々とよく似た射干玉の黒髪、雄々しさを色濃く漂わせる彫りの深い容貌。偉丈夫と表して差し支えないがっしりとした肩幅と屈強な体躯を誇る長身。髪と同じ漆黒を基調とした装束は明らかに里のそれとは趣を違えていて、異国──里の外から来た者であることを暗に示していた。そして、顔の右半分を無骨に覆った黒い眼帯が一際目を惹く。
面識などないはずなのに、一瞥した男の佇まいにどことなく不思議な親しみを覚えて、ミカゲは内心で首をひねった。
神秘の結集ゆえに重苦しくも感じられる聖域の空気をものともしない風で、見知らぬ男は悠然と佇んでいた。相対したシズハは距離を保ったまま総身を強張らせ、どこからともなく現れた闖入者を無言で見据えている。その場に降りる緊迫に、物陰で見守るミカゲの背筋までもがぴんと伸びてしまう。
「転移の術式頼みなら先を越せるかと思ったのだがな。いつになっても待ち合わせではお前には敵わんらしい」
「……」
腰に佩いた愛刀に手をかけ、なおも硬い面持ちを崩さないシズハに、「そう身構えるな」と男が肩をすくめてみせる。
「お前とお前の『契約精霊』の加護がある限り、人払いの策は盤石だ。
──お互い、割に合わん三文芝居を続ける意味もないだろう」
男の言葉はミカゲには今ひとつ要領を得なかったが、それを聞いたシズハは逡巡するそぶりを覗かせた後、おもむろに刀から手を引いて構えを解いた。張りつめた夜気がふ、と緩む。
(ひぃさま……?)
再度居座りかけた静寂を破ったのは、意外にもシズハの方だった。足音ひとつ感じさせないさりげない所作で一歩、また一歩と、男との距離を縮めていく。やがてすぐ眼前で歩みは止まり、色違いの瞳が頭一つ高い位置にある隻眼とまっすぐに見つめ合った。
「……」
ふいに、シズハが男に向かって片腕を差し伸べる。ためらうように刹那、宙で動きを止めて握られかけた白い指先は、けれど残ったひとつきりの目許の輪郭を慕わしげに辿り、やわらかく頬を包む。
「──貴方の」
淡い桜色の唇からまろび出たあえかな声。その裏に混じる危うさに、ミカゲははっと息をのむ。
敵意とも警戒ともほど遠い。
シズハは──今まで一度として見たことのない、触れればたちどころに崩れてしまいそうな、切なげな表情を浮かべていた。
「貴方の、悪い癖だ。そうやっていつも……私を甘やかす」
恨み言と呼ぶにはあまりにも果敢ない糾弾に、男は少し笑ったようだった。
「不満か?」
「……いっそ突き放してくれた方がましだと、何度も伝えたはず」
「残念だがその望みは叶えてやれんな」
頬に添うたおやかな手を、自らの白手袋に包まれた節くれだった掌でとらえ、男がその指先に恭しく口づける。
「俺にできるのは、目の前にいるお前を離さないことぐらいのものだ」
シズハの瞳に押し隠せない哀痛がよぎる。
「貴方というひとは……いつだって変わらない。どれだけ私が拒もうとも、ずっと……」
「他ならぬ俺自身の意思でそう在ろうと決めたにすぎん。相容れぬ敵同士として隔たれようと、こうして人目を忍んでまでお前との逢瀬を重ねている今もな」
涼やかな夜風に吹き上げられた白藤の花びらがはらはらと舞い落ちる。
驚くほどごく自然な仕草で、男の逞しい腕が細い肩を引き寄せ、さながら大切な宝物に触れるように抱きしめた。
「たかが半年をこうも待ち焦がれて過ごすとは思わなかったぞ。……シズハ」
──逢いたかった。
いとおしげに耳元へ吹き込まれた低い囁きに、それまでかろうじて堪えていた忍耐の糸が切れてしまったようだった。
「……ゴド、フレド……」
消え入りそうな吐息に溶けてこぼれ落ちたそれは男の名だろうか。
おずおずと伸ばされた白い腕が男の広い背に回り、弱々しく縋りつくのを、ミカゲは言葉を失くして見つめていた。
(──あんなにつらそうなひぃさま、知らない……)
自分は今まで何を見ていたのだろう。
里の守りを担う巫凪としての責任感ゆえか、一人娘の成長を見守る育ての親としての矜持か、思えばシズハが弱みらしい弱みを露呈したことは一度もなかったのかもしれない。少なくとも、見知らぬ男の腕に身を委ねて打ちひしがれるかの人の姿は、少女のつたない想像をはるかに越える衝撃をもたらしていた。
彼らの関係を、内に秘めるしがらみを詳らかにする術をミカゲは持たない。ただ子供心にも理解できる範囲で鑑みるに、彼──ゴドフレドと呼ばれる黒衣の男は、どうやらシズハにとって敵対する相手ではないらしかった。互いだけにひたむきに注がれる眼差しを踏まえても、二人の間に横たわる雰囲気は、まるで──
「……また少し瘦せたか」
抱き寄せる腕の力を緩めながら、ゴドフレドが眉を寄せる。
「すまんな。不可抗力とはいえ、お前にばかり気苦労をかける」
「そんな……」
男の胸を軽く押し返すようにしてわずかばかり身を離したシズハが、「どうか気にしないでほしい」と小さく首を振る。
「里の結界もあの『封印』も、元より私が背負って然るべき務めなのだから。……貴方の方こそ、」
「ああ、それこそ俺の心配など無用だぞ」
男が身を屈め、月明かりを孕んで淡く輝く白銀の髪に頬を寄せる。
「所詮は膨大な封印術式のほんの一部を肩代わりしているだけ──お前の抱える重責に比べれば、負担の内にすら入らん」
「だとしても、まったく影響が出ないとは言い切れない。あの封印は本来人の身には余る代物だ。そうでなくとも今の貴方は、……半分の魔力しか使えなくなっているのに」
私の、せいで。
力なくうつむいたシズハは唇の動きだけでそうつぶやいた。
肩を落とした銀のつむじを見下ろしながら、ゴドフレドがやれやれとでも言いたげに大仰にため息をつく。
「その話は終わりだと散々釘を刺したのを忘れたか?」
「でも……!」
「俺の言い分は変わらんぞ。己の行動に後悔もなければ、お前がそれを負い目に思う必要もない。
右目は、最善の使い道を選んだ結果だ」
ごつごつとした指が伸ばされた先は、弾かれるように顔を上げた色違いの瞳の右方──冬空を溶かした薄氷色の瞳だった。慈しむようにまなじりをなぞる動きに、シズハの白い細面が泣きそうに歪む。それを黙って見つめる男の眼差しはどこまでも優しい。
そのときになってミカゲは初めて、シズハの右目とひとつ残った男の左目が、寸分違わず同じ色をたたえていることに気付いた。彼を見とめた際に去来したえもいわれぬ懐かしさの要因はここにあったのだ。
白い頬をゆるりと指先で撫ぜながら、ゴドフレドは慈愛とも不遜ともつかない笑みを口許に乗せて言い募る。
「言ったろう。──美しいものが損なわれるのは見過ごせんとな」
しんしんと降りしきる蒼い闇の下で、碧と金の瞳が音もなく揺らぐのがわかった。
「狡い。本当に……」
大きな掌に自らの手を重ね、シズハはぎこちなく頬をすり寄せる。
「私は、貴方の大切なものを奪ってしまったのに……あの方も、この目も……」
絞り出した声はか細く震えていた。傾いだ細身を再び受けとめてくれる男の胸元に額を寄せ、憂いに耐えかねて目蓋を伏せる。
「もう……何も奪いたくない。これ以上、何も、望んではいけないのに──」
どうして、と哀切にあえぐ嘆きは、白いおとがいを掬い上げて降ってきた唇に吐息ごと攫われて。
ほんの数瞬触れて離れた口づけのぬくもりを惜しむように、いっそう強く抱きしめられる。
「儘ならんものだな。結局は俺も……お前を傷つけてばかりだ」
「……あなた……」
その先の言葉は続くことなく蒼い虚空に霧散した。重なったふたつの影の上に、ほのめく月明かりを弾いて花房からこぼれ落ちた白い花びらがはらはらと降る。
* * *
──もはや割って入る機会を完全に逸した失態を悟りながら、ミカゲは物陰に身を潜めることすら忘れて眼前の光景に見入っていた。
きつく掻き抱かれた黒いかいなの間隙から、見慣れた白銀の髪がちらりと見えた。
どきりと鼓動が跳ねる。
すべらかな白い頬を伝うひとすじの雫。
初めて目の当たりにした剝き出しの表情に目を奪われる。驚愕とも同情とも違う──胸を張り裂けそうに締めつけてくるそれがどうしようもなく、うつくしかった。
(ああ、そうか)
ミカゲは無力だった。誰よりも近くで過ごしてきたはずの『ひぃさま』なのに、今はあの大好きな微笑みをひどく遠く感じる。二人の過去に何が起こったのかも、長きにわたってかの人を縛ってきた禍根の正体も、何一つ知らない。もしかしたら、その秘密の内に足を踏み入れる資格さえないのかもしれない。
それでも幼いなりにわかってしまうこともある。
(ひぃさまは、悲しくて泣いてるんじゃない)
(ほんとはきっと、その反対)
大切だから、守りたいから、一緒にいたいから──好きになってしまったから、死ぬよりずっと辛いのだと。
理解してはいても今の自分では、未だ苦しみのただ中にあるシズハのために何もできないと痛感させられる現状が歯痒かった。こんなにも傍にいるのに。
(どうしたらいいんだろう)
知ってしまった以上後戻りはしたくない。諦めたくない。だけど──
(どうしたら、ひぃさまを助けられる……?)
途方に暮れる迷い子のつぶやきに応えは返ってこない。
ほの蒼い闇に流れる雲が月を覆い隠す。
立ち尽くす視界の片隅で、燐光を纏う白の翅がひらりと羽ばたいた。