ダイナル国の聖女②
「ほら、猫ちゃん。怖くないからいらっしゃい」
ヘラルドが、側近たちと共に中庭を歩いている時だった。
木の上から、 少女の声が聞こえた。
「ほら。おいで……いい子ね」
どうやらその少女は、木に登った子猫を助けようとしたらしい。
その姿を見て、今年入った新入生で、男爵令嬢に引き取られた平民の少女がいることを思い出した。
貴族子女が通うこの学園で、このように自ら木に登る女性など、他にいないからだ。
エミリアドーパン男爵令嬢は、ドーパン男爵と平民の女の間に産まれた庶子であった。彼女は母親の死後、父親と名乗り出た男爵に引き取られた。
明るい柔らかなピンクブラウンの髪、青い大きな瞳。クルクルと動く可愛らしい顔をしているのに、身体付きは女性らしいことが危うさを際立たせている。
愛らしく魅力的なことで、街でもかなり評判の良い娘であったという。
男爵家に引き取られた後、エミリアは貴族たちも通うこの学園に通うことになった。
学園は貴族の令息令嬢を始め、裕福な平民や優秀な平民も通うことができた。
学園では身分は問わず貴族と接することができるため、この学園はより良いコネクションを作る場として、平民だけではなく、貴族の中でも重要な社交場として認識されていた。
エミリアは、その見た目もさながら、その自由で奔放な姿が話題になっていた少女だった。
ただの平民から貴族になったばかりの娘で、他の者とは明らかに纏う空気が異なっていた。
その評判は、好意的なものとそうでないものと、極端にわかれていた。
良いものは、誰とでも分け隔てなく接することができる明るい少女というもの。
悪いものは、親すぎる距離感がまるで娼婦のようだというものであった。
「ごめんなさい。猫ちゃんを助けたら、おりられなくなってしまったの。手をかしてくださるかしら……」
その噂の少女が木の上で恥ずかしそうに顔を赤らめた。
ヘラルドは、側近である宰相の息子ルイ、騎士団長の息子ダントと一度目を合わせ、頷き合った。
恐らく、無知なだけで悪意はないであろうと、彼女へと手を貸すことを決めた。
「ありがとう。助かったわ。猫ちゃん、これで大丈……あっ」
しかし、彼女が抱えていた猫は、彼女の脚が地面に着く前に逃げ出した。
パニックになった猫はヘラルドの手の甲を引っ掻いていったのだ。
側近であるルイとダントも焦ったが、それ以上にエミリアは大いに慌て、パニックになっていた。
「ごめんなさいっ……あたしのせいだわ」
蒼白になり、涙を浮かべてエミリアは謝罪をした。
ヘラルドはそんなことよりも、親しみやすいエミリアの言動を見て、なんとも言えない胸の高鳴りを覚えた。
ヘラルドは身分ゆえ、畏れ、傅かれることばかりであった。その中でも女性は頬を赤らめ擦り寄ってきたり、媚びてくることが多かったのだ。
ヘラルドは隔たりを感じさせない接し方をしてくるエミリアに、今までにはない新鮮さを覚え、思わず微笑んだ。
「いや、大丈夫だ。大した傷ではない」
「そんな……! でも血が……」
エミリアは、ヘラルドの傷に触れた。
手の甲にできた、小さな傷であったが、滴る血はヘラルドの袖口を赤く汚した。
「急いで医務室へ……」
ルイがヘラルドを促したその瞬間、ヘラルドの手は白い光に包まれた。
ほんのりと包み込まれる暖かな光――その光は数秒続き、光が収まった時には、ヘラルドの手にあった傷は綺麗に消え去っていた。
「なんだこれは……」
「殿下!?」
「傷が……」
その場にいた三人は目を見開き、確かに血が滴った痕跡のある手を見つめた。
「……ご令嬢、これは貴女が……?」
「え……? あたし??」
未だ理解が追いついていないようなエミリアは不思議そうにしているが、その奇跡を目の当たりにしたヘラルドたちは確信した。
“エミリア・ドーパン男爵令嬢こそが、本当の聖女”だと。
「よくわからないけど、治って良かったわ! あ! あなたたちって……もしかして、お貴族、様……?」
首をかしげながら問うエミリアに、三人は顔を見合わせ、困ったように微笑めば、慌てたように「こめんなさい失礼しました」と、エミリアはまた深々と頭を下げた。
エミリアだけが、ことの重大さに気づいていないようだった。
それからヘラルドと、宰相息子ルイ、騎士団長息子ダントはエミリア男爵令嬢と共に行動することが多くなった。
「ヘラルド様の傷が治って本当に良かったわ。あたし、これからも沢山の人を癒せるようになりたいわ」
あどけなく笑うエミリアに、貴族社会で疲れていた高位貴族の三人は癒されていた。
「エミリア、君こそが本物の聖女だよ」
聖なる力を目の当たりにしたヘラルドは、エミリアにそう告げた。
「あたしが聖女だなんて、うふふ。そんな夢みたいなこと、信じられないわ」
「そんなことないよエミリア。君の力は何よりも素晴らしいものだ」
「そうだよ。胸を張って誇るといい」
「まさに神の御業だな」
ヘラルドと同様、ルイとダントもエミリアに賛辞の声を送る。
元平民である少女の、素直で健気な笑顔が眩しかった。
エミリアは、ヘラルドたちが身分を明かしても、態度が変わることはなかった。
勿論、ヘラルドたちが態度を変えぬように命じたのだが、もともと人との距離感が近いエミリアは、すんなりそれを受け入れた。
しかし、そんなエミリアを疎ましく思うものがいた。
「また嫌がらせをされたのかいエミリア……」
エミリア・ドーパン男爵令嬢の力の覚醒の話が学園中に広まったころから、エミリアは何者かによる嫌がらせを受けるようになってしまった。
「可哀想に……きっと貴女の立場を嫉妬したものの仕業でしょう……」
「聖女に、何と下劣な……」
初めはエミリアの私物がなくなるようになった。
次第に教科書や机を傷つけられるようになったりと、嫌がらせは凶悪じみたものになってきていた。
エミリアは癒しの力を発現したことで、人々から羨望の眼差しを向けられることになったが、身分の低さから嫉妬や妬みをうけることも事実であった。
「大丈夫よ。あたし……」
気丈に微笑んでみせるエミリアだが、その笑顔は出会った頃より、憂いを帯びたものになった。
「それにあたし、ちゃんと聖女だって教会に認めてもらったわけじゃないのに……ヘラルド様たちと仲良くしちゃってるから……」
だから仕方がないと、エミリアは笑顔のまま瞳を潤ませた。
「あたし、学生の間だけでもこうして……ヘラルド様たちが
一緒にいてくれるだけで、嬉しいわ」
その健気な態度に感銘を受けたヘラルドは、より一層エミリアを気にかけるようになった。
エミリアも公務で疲れているヘラルドに膝枕をしたり、手作りのお菓子を持参したりした。
ヘラルドたちには、庶民の生活が抜け切れていないのであろう彼女の言動が、あまりにも魅力的に映った。
そんなエミリアに苦言を申し出るものも多少はいた。しかしエミリアは決して驕らず、親しみやすく、とても優しかった。
彼女と一緒にいる時だけは、国を背負うプレッシャーや、貴族のしがらみから解放された。
エミリアは、ただそこにいるだけで、ヘラルドたちを癒していた。
「確かに、エミリアは聖女の筈だったのに……」
眩い稲光と共に、激しい雷鳴の音が鳴り響く。
甲高い悲鳴と、慌ただしい足音。
雷がまた、この城に落ちたのだ。
これで三度目だ。
リイナがこの地を追放されてからひと月、三度この城に雷が落ちた。
「天罰か……」
ヘラルドは後悔していた。
エミリアを聖女と信じてしまった己の愚かさと、そのエミリアと結ばれたいがために、長年の婚約者であったリイナを裏切ってしまったことを。