忍び寄る不穏
最初に異変が現れたのは王都であった。
人々は空を見上げる。黒に近い曇天の雲が、かつてないほどの大雨を王都に降らせていた。
滝のように降り注ぐ雨。たった一晩で川は氾濫し、多くの農作物が軒並みやられてしまった。そして王都は水浸しとなった。
人々が違和感を感じ始めたのは雨が降り始めてから翌日のことであった。
氾濫した川から泥が押し寄せたのだ。
その泥は道沿いを通り、広場まで続いた。
一晩中激しい雨に窓を叩かれ続け、眠ることができなかった住民たちは、呆然とその光景を見ていた。
人々はその泥を辿る。
普段の賑やかな街並みは騒然としていた。
雨は未だ止まず、何処からか流れてきた泥は、歩くたびに撥ねて人々の服や靴を汚した。
王都の中心の広場は、王都の人々から愛されていた。
式典がある日は、そこで祭りが開かれた。
子供達は皆そこで遊び、祝日には古市場が開かれていた。
恋人たちの待ち合わせでも人気の場所であった。
――――その広場で昨日、 ひとりの元貴族令嬢が罰せられた。
民衆は一つになり、手を叩いて歓声を上げた。
うら若き娘が泣き叫び許しを請いながら鞭打たれるのを笑いながら見ていた。
泥に塗れた広場に人々はため息を吐き、そして帰路に着こうとして、そして気づいた。
泥が押し寄せた通りは、昨日罰せられた娘が、引き回された道順ではないだろうか。
気づいた時、広場からはドブのような匂いが漂った。
さらに二日後、人々は汚泥の発する強烈な異臭に、息苦しさを感じ始めていた。
叩きつけるような雨は若干弱まってはいるが、未だ降り続いていた。
三日三晩雨が降ることすらないこの国で、これほどまで降り続くのは異常であった。
人々は雨が止むのを待っていたが、空を覆う雲は厚く、未だ止む気配はない。
仕方なく民は、雨の中その汚泥を撤去し始めた。働き手の男たちが大勢協力し合い、汚泥の撤去に動き出した。
しかし皆一様に息苦しさを感じていて、撤去作業は一向に進まない。
雨を含み重くなった汚泥は、掻き集めて運んでいる最中に、泥水が溢れて綺麗な道すらも汚い泥で汚していく。
そうして、王都の外へ運び出すことを諦めた男たちは、汚泥を広場に集め始めた。
民に愛されていた王都の広場は、すっかり穢れたものになった。
ある程度汚泥が片付き、異臭がなくなったのにも関わらず、人々は息苦しさに悩まされていた。
そうして、いよいよ恐ろしい病が流行り始めたことを、人々は知る。
最初は軽い息苦しさから始まる。それが徐々に重くなり、溺れるような息苦しさになる。その頃には喉が枯れ、声が擦れてしまう。
汚泥に塗れた通りと広場。嫌でも先日行われた元貴族令嬢への刑罰が頭をよぎる。
あの娘は、気絶するたびに何度も水をかけられ、苦しみながら目を覚ましていた。泣き叫んだ声は、枯れ擦れていった。
「元貴族令嬢の呪いか、それとも……」
人々の脳裏に、恐ろしい予測が過る。
「いや、そんなはずはない」
「そうだ。そんなことはあってはならない」
「この国には……この王都には、真の聖女様がいらっしゃるんだ」
「真の聖女様なら、この病もきっと治してくれるはずだ。だから……」
それからすぐ、“真の聖女として発表された男爵令嬢エミリアが、癒しの力が使えなくなったと”いう噂が王都を駆け巡った。
それは奇しくも、病の犠牲者が出始めた時期と同じであった。