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執事の喫茶店  作者: ASOBIVA
16/20

7杯目【後編】

扉を開いて一歩、ディレクターは案内された

喫茶店の中に立ち入った。


「あらためて、ようこそ私の喫茶店へ」


先導していた白い燕尾服の男がくるりと

向き直って、彼に一礼する。


彼はこの店では執事と呼ばれているらしい。


彼の名乗りを聞いて、ディレクターは

自分の鼓動が跳ねたのを自覚した。


クラシカルな内装も相まって

異世界に来てしまったような違和感


それでいて、なぜか懐かしい


やっとここに辿り着けた、なぜかそんな言葉が

彼の心に浮かんだ


(なんで初対面の、得体のしれない男相手に

こんなこと考えてるんだろう?)


自分で自分の思考がわからない


ディレクターは戸惑いながら

カウンター端の席に腰掛けた


執事いわく、この店は客に合わせた

おすすめの一品のみの提供だという


客側の自由はないわけだが、

気に入らなければ料金は不要


冗談としか思えない設定だが

どうやら意図があってのことらしい


「目的を果たすには十分なんです。

店は道楽のようなものですから」


執事はそう言って、ただ笑った。


もっと詳しく聞いてみたいところだったが

あまり深入りするのも不躾だろう


ディレクターは自分のおすすめの一品を

待ちながら、企画書に目を通していく


(ここをもう少し、方向性を見直して…)


他に客のいない喫茶店は、

集中するには適した環境だ


短時間で書類にぐっと入り込んだ

ディレクターは、おいしそうな香りに鼻をひくつかせた


(ああ、お腹すいてきた…)


朝から慌ただしかった彼が今日食べたのは

カロリーバーだけ


そっと胃のあたりを手をやりつつ

ディレクターは書類にまた意識を傾けた


そうしてしばらくして、

小さめのココットが目の前に置かれた。


「お待たせいたしました。

とろとろ玉ねぎのオニオングラタンスープでございます」


執事の手で、ココットの蓋がひらく。


溢れ出すブイヨンとチーズの香りに

ディレクターのお腹がきゅううと鳴った。


飴色のスープにとろけたチーズ

焦げ目のついたバゲットとほとんど溶けた

玉ねぎがその下に隠れている


「熱いので、気をつけてお召し上がり下さい」


熱いものは熱いうちに。

なにより空腹には勝てないものだ。


ディレクターは企画書を一旦脇において

そっとスープにさじを差し込んだ


とろとろ、ほろり


チーズの熱で舌が火傷しそうになる

でも、止まらない


スープの具はシンプルだ

パンと玉ねぎとチーズだけ


それなのに、味が複雑で、コクがあって

ホッとする味なのに、今までに食べたことのない

不思議な魔力がある


はふはふと息を吹きかけて冷ましながら

ディレクターは少しも飽きずに

スープを食べ進めていった


ココットが空になり、ふうっと一息ついた

タイミングで執事は彼に声をかけた


「ちらりと拝見した程度ですが、熱量を感じる

すばらしい企画書ですね」


執事の目線は、ディレクターが脇に追いやった

紙の束に向けられていた。


「もちろん全容など私は存じ上げませんが

先程のご様子を拝見していても、きっと長らく

綿密に準備されてきたのだとお見受けしまして


少し、懐かしくなってしまいました」


ひそやかに執事は笑う。

ディレクターはその表情に目を見張った。


彼が敬愛する経営者がしばしば見せる底知れない

すごみのようなものを感じ取ったからだ


(多分、この人ただものじゃない…)


なぜか確信があった。

おそらく、目の前の執事は経営者と同じような

場数を踏んできた経験者だ。


だからだろうか

ディレクターはつい、内に抱えていた不安を

吐露してしまった。


「うまくいきだしたところなんですけどね。

でも、いつどこで破綻するか。人は変わるものですから」


過去に何度も経験したすれ違いや裏切りを

思い出して、ディレクターは自嘲する。


見ないふりをしても、不安はいつだって

彼の心の中に芽吹いていたのだ。


「ここぞというところだからこそ、怖くなる。

そうですね、人が変わるというのは私も同感です」


執事は少し目を伏せ、記憶をたどりながら

語り始めた。


「かつて私は多くの方と出会い、そして多くの方と

道を違えました。スピード感の違いや方向性のズレから

ときに何度ももめました。


ほしがってばかりで、与えようとしない。そんな人も

残念ながら多かったですから、相手を信用するためには

長い時間見極める必要がありました」


ディレクターは驚く。

目の前の執事が、経営者とだぶって見える。


きっと、経営者の彼がもしこの場にいたら

似たようなことを言う気がした。


「特に、SNSなどの出会いは、諦めを感じていた

時期もございます。『リアルでなければこんなものか』と

見切りをつけようかと悩んだ時期もございました。

それでも、少なくとも私は、リアルだけではなくSNSでも

数多くのよい出会いを見つけていくことができました。


結果、信頼できる仲間とだけ組んでいきました。

個性は大事ですが、主張しあって潰すのでは意味がない。

それこそスープのように、溶け合ってひとつの味を作り出す。

時間をかけながら、そういう関係をつくっていきましたね」


うらやましい、とディレクターは思う。

自分たちが目指すものを、執事は手にしたらしい。


もちろんその裏には数々の試行錯誤や努力があるだろうことは

容易に想像できた。


だからディレクターは口に出さず、ただ彼の言葉に

耳を傾ける。


「裏切られたら、自分の見る目がなかった。いい意味で

折り合いがつけられる人たちだけが残ったんです。

大変でしたけれどね。でも後悔は少しもしていません。

…きっと、あなたと一緒にお仕事をされているトップの方も

似たようなお考えではないかと私は思いますよ」


それがトップの仕事ですからね、と執事は語った。


(本当にこの人、うちのトップとよく似ている…)


ディレクターはぎゅっと目を閉じる。

関わる全ての人達の顔を思い出していく。


経営者と相談しながら、ひとりひとりを見極めてきた。


まだ判断途中の相手もいるが、それでももう後戻りを

することはない。


(そうだな、もう始まっている。

なら、今は信じよう。誰かがいつか道を違えたとしたら

フォローアップも自分の仕事なのだから)


目を開けて、一言


「ありがとうございました、スープおいしかったです。

あと、お話も。聞けてよかった」


執事に向かってディレクターは感謝を伝えた。


「…どういたしまして」


お代を支払って、ディレクターは次のアポへと向かっていく。

どこか吹っ切れた顔をして、彼は店を後にした。


「いつか、この店にうちのトップも連れてきたいです」


扉を開ける間際、振り返ったディレクターが

呟いた言葉を執事は思い出す。


「なかなか難しいのですが…まあ、抜け道も

ありますからね。もうすぐ、きっと」


最後のお客様にもお目にかかれるでしょう。


店を片付けながら、執事は小さく笑った。

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