7杯目【前編】
流れが変わるときはいつだって突然だ。
正確には、それまでの一歩一歩が
見えないところでじわじわ積み重なり
あるとき、臨界点を突破する
突破点まで耐え抜けるかどうか
あらゆる勝負は地道な蓄積がものをいう
彼が敬愛する大先輩であり
上司である経営者がかつて彼に
そう言い聞かせたことがある
『だから、結果が見えるまではしんどいことだらけ。
誰だってきつくてやめたくなるだろう?
それでも…お前は先を見たいと本気で思うのか。
もしその覚悟に嘘がないなら、俺と一緒にやってみるか?』
経営者がビジョンを語った時、
同じベクトルの夢を彼もまた描いた。
誰に笑われても、何かを失ったとしても
叶えるのだと決めた。
彼はそうして安定を放り出し
経営者の設立したばかりの会社に入った。
ちっぽけなコンテンツ制作会社だ。
ベンチャーと名乗ることすらおこがましいと
言われるかもしれない規模だ。
それでも、彼は未来を見た。
経営者から必死に学び、実地で経験を重ね
失敗を繰り返してなお、折れずに食らいついた。
トップの経営者の補佐の一部を担う総合ディレクター
それが、今の彼である。
(最初の臨界点は、きっともう近い)
次のアポが急にキャンセルになったことで生まれた余白の時間
ディレクターは公園の木陰でベンチに腰かけていた
携帯をチェックし、膨大なLINEやチャットを
さばきながら、SNSをチェックする
動画クリエイターや小説家、ライター…
様々なコンテンツ制作関連の連絡に加えて
後輩からの相談も来ているようだ。
次の展開に向けて、一部の信頼できそうな
インフルエンサーを見極めながら
アプローチもしていかなくてはならない。
多忙だ。
経営者の彼に比べればましとはいえ
ディレクターの時間は分刻み状態だった。
それでも
『やっと、ここまで来たよなあ…』
経営者が描いたビジョンのために必要な
ピースが急速にそろいつつある。
『知名度よりなにより、本当に信頼できる
仲間を作っていこう、育てていこう。
もろく崩れる砂の城をいくつ作っても意味がない。
どこまでも続き、時を超えて残り続ける万里の長城こそ
築くべき私たちの城だ』
経営者は執拗なほどに信頼にこだわった。
ビジネスの判断には情を挟まないことを徹底しているのに
人を見るものさしはどこまでも信頼、そして熱量だった。
数多くの失敗を重ねる中で、ディレクターは経営者の言葉の
重みを知ることになった。
口約束に何度だまされただろう。
信頼していたはずの相手にあっさり裏切られただろう。
逆に、会社の判断として相手から「裏切った」と言われても
仕方ない苦渋の決断を下したこともある。
(でも、ようやく、ようやく次の段階に進める)
経営者の彼もそう判断したようだ。
いよいよ土台固めから一歩踏み出していく時期だと。
これからが本当に楽しみだ。
そうディレクターは心から思っている。
その反面、今更な不安がたびたび彼を襲うようになった。
本当に充分なピースは揃ったのか?
積み上げてきたものを壊すような穴を
実はどこかに見落としていないだろうか?
ディレクターは公園の噴水を見つめる。
水は流れ続ける。決してもとに戻らない。
少しだけぼんやりした時間に浸ってから
彼はカバンからある書類を取り出した
今進めている一大プロジェクトの一部、
彼の夢のかけらというべき企画書だ
(時間が空いた分、企画を見直しておこう。
どこか抜かりはないか、改善できる点はないか…)
何度も見た企画書だが
彼はしつこく目を通していく
そうしてどれくらいの時間が経っただろうか
噴水の水しぶきが混じって
急に強い風が公園を吹き抜けた
ディレクターの手から書類が1枚
風にさらわれていく
彼は慌てて書類を追いかけた
企画書をなくしてしまったら大ごとだ
ひらりひらひら、1枚の紙が空を舞う
風の終着点にその男はいた。
「おや、落とされましたか?」
白い手袋をした手が拾い上げた書類が
追いかけてきたディレクターへと差し出される
『あ、拾っていただきありがとうございます』
お礼を言いつつも、彼は相手の風体に
内心ぎょっとしていた。
なにせ上質そうな白の燕尾服なのだ。
明らかに恰好が明るい昼の公園にそぐわない。
「大事な企画書とお見受けしました。
公園で読まれるのは不用心ですよ?」
男の言葉に、ディレクターは少々気恥ずかしくなった。
さすがに公園で書類チェックというのは、
思慮が足りていなかったと今更思ったからだ。
「私、これでも最寄の喫茶店を経営しておりまして。
公園よりはゆっくり書類も読める場所かと存じます。
あと、今ならきっとお気に召すサービスもご提供できるかと…」
最後に付け加えられた言葉は、なぜかディレクターには
聞き取れなかった。
ただ、場所変えは悪くないアイデアだと思った。
袖すりあうも他生の縁。
書類を見るだけなら、どこの喫茶店でも大差ない。
『書類を拾って頂いた縁もありますし。売り上げに
貢献させていただくとしましょうか』
燕尾服の喫茶店というのは想像がつかないが
誘われたら乗る、まずは面白そうなら試してみるというのが
ディレクターの常だった。
「ええ、ありがとうございます」
ディレクターの返事に、燕尾服の男はやわらかく笑った
公園から徒歩数分
奥まった路地の先へと彼らは向かう
そうして、ディレクターは扉を開け喫茶店へと招かれた
彼は知らない。
「違う世界でも『あなた』ですから
きっと多くを得てくださるでしょう」
聞き取れなかった言葉の意味など
今のディレクターには関係がない話
喫茶店は訪れる客の成功のために
存在している。
それだけのことだ




