終幕 戦場
雨の匂い。もうすぐ降る。こんなにも強く匂うのだから、土の跳ねる匂いが畠を満たすだろう。草の根を抜くのも楽なはずだ。
だけど、大勢の足で踏み固められたこの戦場の土からは、いい匂いがするわけもない。
「おまえ、こんなに強かったんだな」
「もうおまえはおれたちの仲間だ、首領も認めざるを得ないだろう」
「そうだ、おまえのおかげで、今回おれたちは誰も死んでない」
ああ、なんとか生きのびた。まだ生きている。でも、こんなことが続くのはいつまでか。
山のやつらの横から跳ね出て、慌てたやつらを川の守りが仕留める。一度しか見てないものの真似事がずっと続くはずはない。生き残りが戻ったら、きっと僕は警戒される。茂みから出たところを狙われるか、そもそも茂みのないところで待たれるかだろう。
「そろそろ山のやつらも諦めるんじゃないのか、あいつらの畠を焼いてしまおうぜ」
「そうだ、あいつらのせいで多くの人が死んだんだからな、誰も生かしてはおけねえ」
「でもよ、首領は畠を荒らすなと言ってたぞ、畠のやつらを殺すなとも」
当たり前だ。畠を自分のものにしたほうがいいに決まってる。
首領は山の村を奪う。そして、川の水を自分のものにする。川の水をやらないと言うだけでいい。首領は川下の村も好きなようにできる。川の守りをこんなにも連れてきたのは、逆らえないようにするため。生きていけるだけの麦を残し、すべてを自分のものにする。
あの嘘つきがいたときと、どちらのほうがましなのだろうか。
「おい、首領が呼んでるぜ」
……首領のお気に入り。
「褒美があるんじゃないか、おまえ、強くなったな、体も大きくなった」
ーー逃げたか、山の村の人間であったのだろう、待て、追わなくともよい、どうせおれたちは山へ向かう、そのときに殺せば済むことだ、さて、この小さい人間をどうするか。
ーーあの人は狩人です、畠で生きることを嫌がってました、だから、山の村のやつではないです、逃げたのは、たぶん、信じてもらえないと考えたから。
ーーおまえ、喋れるではないか、しかも、賢いな、そのように命乞いをすれば殺されないと思ったか、ならば、おれは見極めてやる、山の村と戦え、文字が刻まれた刀を持っているのはそのためだ、おまえを先鋒にする、おまえが誰よりも先に敵陣に飛び込め、戦争が終わった後まで生きのびればおまえを認めよう。
褒美なんてあるわけがない。首領は、僕が村を奪おうとしていたことに、おそらく気づいている。嘘つきを殺す口実になった僕を生かし、利用した。手の内を知る僕を長いこと見ていたくはないだろう。
……それは、いつ、どのように。
「お連れしました」
「あとは二人にしてくれ」
無駄も迷いもない。僕をどうするのか、決めたということ。
「座れ、酒を飲もう」
……酒か。一緒に飲みたいと言ってくれた人は、どうなったんだろう。あの逃げた狩人だけは、僕を利用せず、僕を僕として見てくれた。
「おまえの働きはたいしたものだ、おまえを先鋒にしたのは正しかった」
なにが言いたい。そんなことを言いたいわけではないだろう。早く言ってくれ。僕はあの人と酒の話をしたいんだ。忘れないうちに、記憶の中で、あの話の続きをしてやりたいんだ。
僕が、いつ、どのように死ぬのか。決めたことを、さっさと言ってくれ。
「呼んだのは話があるからだ、先ほど山の村の首領から伝達があってな、ここらで戦争を終えたいということだ、おれが言ったのを覚えているだろう、おまえは生きのびている、認めよう、先鋒としての最後の仕事だ、山の村の首領を殺せ」
目の奥が熱い。気持ちの悪い飲みもの。こんなものの話をしたい気持ちがわからない。
ーー二口目からは、体をめぐる熱が、なにかに包み込まれた感じが心地よく、眠るまで飲んでおったよ。
熱が、まだ終わっていないと僕に叫ぶ。
「賢いおまえのことだ、察しているだろう、おれは山の村を自分のものにする、話し合いで終わらすつもりはない、そこでだ、おれが話し合いの場に着く前に、いつものようにやれ、近くに高い草の茂みがあるところだ、これが終われば、おまえを川の守りの仲間として認めよう、元の村に戻してやる、そうだ、なにか先に褒美をやろう、なにがほしい」
羊の子
食われるために生かされて
なにも持たずに立ち歩く
おまえの皮はただ臭い
おまえの毛は少なくて
肉も肝も祈りにならず
羊になれない羊の子
人を食らう狼が
こちらへ来いと呼んでいる
食われるだけの羊の子
食う側にまわれと
しつこく誘う
月を味方に目に映る
ものだけをただ目に映せ
羊になれない羊の子
人の群れのまやかしに
付き合いたくはないだろう
……そうか。あの歌の続きだったのか。僕を歌う言葉は、僕の中から生まれてきた。
ずっと会いたいと思ってきた、僕の話を聞いてくれる人。騙し合いの相手ではなく、あるがままのことを話し合える人。目の前にあるもの、空や大地、そして命。ここにあるのはなぜなのか。そういうことを話したい。
「酒を、少し多めにいただけますか、警戒されているでしょうし、やつらが来るよりも前に茂みに潜みたいと思います」
「はっはっはっ、おまえも好きだな、よし、少し上等なものをやろう」
気持ち悪い笑い声を止めろ。
月のない夜に狩人が狙う。夜の闇の1つとなった刀は、太陽の光と熱を宿したがる。
欲するのは言葉。偽りのない心の欠片。やわらかい草原で待つ、あの狩人のところへ、逃げてやる。
(了)