七幕 狩人の草原
月が冷えと闇を教え始めた。これから夜虫はなにを歌う。
風のもたらす枝音は耳を奪い、消えた命の行方を隠してしまう。
朝日に輝く葉の露は、夜の厳しさをたたえた果実。空にきらめく星たちが、太陽から逃れて降りてくる。そのとき唇を湿らすことができるような、夜の寝床を探すとしよう。
あんたが村に入ってから、どれくらい経ったのだろうか。月が消えた夜を二度。しばらくすれば三度目になる。
食べものを見つけるのには慣れてきた。狩りも上手くなった。だけど、僕にはあんたが必要だ。言葉を聞かせてくれ。
羊の子
食われるために生かされて
なにも持たずに立ち歩く
おまえの皮はただ臭い
おまえの毛は少なくて
肉も肝も祈りにならず
羊になれない羊の子
僕を言葉にした唯一の歌。これだけが僕を人のままでいさせる。だけど、もう僕は狩人。村の人ではない。
今の僕を歌うものはなく、僕を言葉にする人もいない。羊になれない羊の子は、狩りを覚えた後はなにになる。食うために生きて、刀を持つ僕は、なにかの祈りになるのだろうか。
畠ではもうとっくに麦がとれた頃だろう。僕が生きているから、神様はほとんど麦を与えてくれない。あんたにお礼があったとしても、今は腹を空かせているんじゃないか。肉で腹を満たしたくなってきたんじゃないのか。すぐになんとかするから、早く村から出てきておくれよ。
そうだ。村から出てきた人を襲ってみよう。様子を知りたい。村を襲う蛮族の仲間に入れてもらうのもいい。そろそろ麦を食べたくなってきた。それがいい。いらいらするのは麦を食べていないからかもしれない。
「ここにいたのか、探した」
……懐かしい声。大きな目は変わらず大きい。少し甘い匂いがする。なんだろう。
「いつ出てきたの、ずっと村を見張っていたのに」
「ついこの前、月が消えただろう、そのときだ」
「朝に出てくると思っていたよ」
「洞穴を知られたくなかったからな、村を出るのは月が消えた夜と決めていた」
「あいつはどうしたの」
「ああ、あいつは死んだ」
「殺したの」
「いや、殺された、あいつ一人だけ生き残ったのが悪かったようだ、殴られ蹴られで体がずいぶんと熱くなってな、村に入った次の朝には死んだ」
「それからどうしたの」
「わしの言うことが嘘ではないかという話になり、畠で麦がとれるまで見張られていた、とはいえ、客ではあるし、村のやつを助けたということもあって、なにも困ることにはならんかった、川の守りになりたてのやつがずっと側にいたのが邪魔ではあったがな」
いずれの石も
欠けるまでは祝福の石
慎重だ。僕が生きていて、偉い人は神様になにも聞けないのに、我を失っていない。
……なにかおかしい。
ーーこいつを神様にお渡しする、人が神様を怒らせた、いつもと違うものをお渡しせねばならぬ、そうすれば、わたしの話を聞いてくださり、災いも小さくなろう。
そうだ。神様への願いはどうなったんだ。
嘘を信じて願えば、そのときに神様が怒ったままなのがわかるはず。……願わなかったということ。怒っている神様にお願いをすると、より大きな怒りにつながる。だから、神様が僕を食べたかどうか、麦の量で確かめようとした。
でも、そもそも神様に願わないと麦がとれない。嘘かどうかを見極めるために収穫を待つのは変だ。
人を食らう狼が、こちらへ来いと呼んでいる。食われるだけの羊の子、食う側にまわれとしつこく誘う。月を味方に目に映るものだけをただ目に映せ。
……なんだ、これは。覚えがないぞ。頭の中で、言葉が生まれてくる。
羊になれない羊の子、人の群れのまやかしに付き合いたくはないだろう。
「麦はとれなかったでしょう、僕は生きているわけだし、川の守りと戦ったの」
「いや、実に多くの麦がとれたのだ、だから、わしにもずいぶんな礼があってな、なにもせずに腹が一杯になった、酒というものも飲んだ」
……麦がとれた。
神様に願わないと麦がとれないはず。しかも、多くの麦。
なぜだ。神様の怒りはおさまっていないのに。
「あれはうまいな、わしがわしでないような気になる、畠の村を襲う狩人の気持ちが初めてわかった、神の飲みものだと言っておったがどうせ嘘であろう、神が人と同じように飲み食いをするわけないからな、あいつらが嘘を信じていようがいまいがどうでもよいが、とにかく酒はうまい」
「偉い人は神様にお願いをしたの、僕は食べられていないんだよ、なのに、まだ怒っている神様にお願いをしたの、多くの麦がとれたって、僕を食べなくても怒りがおさまったの」
「なんだ、いろいろ問うな、なにから答えればよいのだ、ああ、あいつは神に頼んだと言っておったぞ、それで、これほどの麦がとれたのは久しぶりだと、わしはずいぶんと礼を言われた」
神様にお願いをした……なんで、嘘がばれなかったんだ。僕を食べていない神様は怒ったまま。お願いをするとき、神様が怒っていることくらいはすぐにわかるだろう。
「好きなだけ酒を飲んでくれと言われてな、最初の一口はまずかった、目の後ろが熱くなり毒だと思って吐こうとしたのだ、だがな、酒がもう一口飲んでくれと言ってくるようでな、二口目からは、体をめぐる熱が、なにかに包み込まれた感じが心地よく、眠るまで飲んでおったよ、そのようなことが続き、ついつい月が消えた夜を一度逃してしまった」
「僕を食べなくても神様の怒りがおさまったってことなの」
「おまえを食べて怒りがおさまったから収穫を頼めたと言っておった、わしがあいつを狼から助けなければ頼めなかったと、だから、わしが酒を飲んだのだ、あれはほんとうにうまい、それにしても不思議なものだ、触れてみたときには冷たいのだが、飲んでみると熱い」
「酒の話はいいよ、僕を食べて神様の怒りがおさまったというのは嘘だ、僕は生きている」
「わしは酒の話をしたいのだがな、おまえに感謝をしているのだ」
「僕は飲んだことがないし、そんな話をされてもわからないよ」
「なんだ、飲んだことがないのか、飲んでないやつと酒の話をしても仕方ない、ずっと側にいたやつがいつでも来てくれと言っておったしな、おまえの分の酒ももらうとしよう、そうすれば酒の話ができて愉快だ」
「そんなことよりも、偉い人が嘘をついているという話をしたいんだ、きっと他のやり方で怒りをおさめることができたんだよ、でも、なんで偉い人はそんな嘘をついたのだろうか」
「そんなことか、どうせ神の子と言ってるやつのことだ、嘘に決まっている、神の子が人であるはずなかろう」
偉い人は嘘をついている。それは間違いない。でも、なんで嘘をついたのかがわからない。必要もなく、僕を神様に食べさせようとした。なぜだ。
「おまえ、あのとき、殺されそうだったとき、あいつのことを嘘つきだと言っていただろう、それなのに、なぜ難しい顔をして考えているのだ」
「えっ、そんなこと言ったの、なにを言ったのか覚えてないんだ」
「神は人を殺さんと言っておった、だから、あいつは嘘をついているのだと」
偉い人は嘘つき。もしかして神様の怒りが嘘だった。でも、なんで。
……そうか、偉い人は自分の子を守るために嘘をついたんだ。
あのとき、偉い人の子は川の守りになるやつと揉めて、他の子に文字を教えてほしいという騒ぎになるところだった。川の守りの首領のお気に入りの言うことを、偉い人も簡単には無視できない。だから、あの騒ぎを終わらせるために神様が怒ったと嘘をついて、怒りをおさめるために僕を殺すことにした。
僕が死んでも村はなにも困らない。羊のように殺された人の子から産まれた子、羊の子だから。
人を食らう狼が
こちらへ来いと呼んでいる
食われるだけの羊の子
食う側にまわれと
しつこく誘う
月を味方に目に映る
ものだけをただ目に映せ
羊になれない羊の子
人の群れのまやかしに
付き合いたくはないだろう
こんな嘘は初めてなのか。いや、慣れているはず。そうでないと、いつもと同じ顔で、しかもすぐに、こんなに巧妙な嘘を言えるはずがない。でも、これまで嘘をついたところを見たことがない。
ーー次の収穫では麦が少ない、備えよ。
麦がとれず、小さい人がたくさん死んだ。
ーー神様に背く者が現れ、多くの者が冷たくなる。
蛮族が畠にまでやって来た。
それだけではない。無事に産まれないはずだったのに、偉い人が神様にお願いをして元気な子が産まれたこともあった。よくないことが起こらないようにしてくれたことはたくさんあった。だから、偉い人は嘘つきだけど、神様の子なんだ。
いや、偉い人の子は雨が降ると言ったのにそうならなかった。あいつは神様の子ではない。神様の子の子が神様の子でない。これはおかしい。だったら、偉い人も神様の子ではないということ。
……偉い人は神様の子ではない。神様の子というのも嘘。
ーーわたしはこいつに文字を教えた、そのときからこいつも神様の子である。
そんなわけあるか。なんで文字を教えたときから神様の子になるんだ。神様の子はずっと神様の子でないとおかしいだろう。やっぱり偉い人は神様の子ではない。あいつは嘘つき。
「あの嘘つきは、これからなにが起こるのかがわかるんだ、暑くなること、寒くなること、これからどうなるのかをみんなに教える」
「星をよく見ているからだろう、暑くなるか寒くなるか、だいたいのことはわしでもわかる、そうでないと狩りも上手くはいかん」
「川の水はどうなの、神様にお願いをして川の水を増やしてもらうんだ、水がないと畠で麦がとれない」
「このあたりに来る前、わしはあの山を越えたあたりで狩りをしていた、果ての見えぬ草原があり、大きな動物も多い、あの山よりもずっと向こうの山は白いのだ、あまりに美しく、あるときにどうしても近づいてみたいと思ってな、それまでの狩場を捨てた」
……なんの話をしているんだ。
「進めば進むほど白く寒い、このあたりの寒さとは比べものにならん、あらゆるものが死ぬ、骨のような白さが命を奪う、だが、美しい、冷たく白い砂が舞う、おそらくそれが集まって白い山になっているのだろう、その白い砂はな、触れるとほぐれて水になるのだ、熱で水になるということだな、このあたりの川の水が増えるのは、白い山の砂が水になって流れてくるからではないかと思う、川の流れが強くなるのも暑くなってしばらくしてからだしな」
「えっ、川の水は神様が増やすのではないの」
「いや、神でないとあのようなことはできん、白い山の近くでは美しさと死が共にある、これが神だと思った、人が立ち入ることはならん、そう考え、わしはあたたかい場所を求めてこのあたりまで来たのだ」
骨のような白い山。それは骨だ。死んだ人の骨が集まっている。生きていた人が死んで骨になり、水になって帰ってくる。水が麦となり、麦を体にした人は、いつか死んでまた白い山へ行く。
僕の体は、死んだ人でできている。生きている人は死んでいる人。生と死の違いは、ほんのわずか。死ぬことはおそろしいことではなく、すべてはあるがまま。なにも変わりはしない。
そう、あるがまま。
「川の水を増やしてほしいと神様にお願いしているわけではないんだね」
「何度も言っているだろう、おまえも言っていたではないか、あいつは嘘つきだ」
「だけど、たくさんの人が死ぬとか、無事に子が産まれないとか、これからどうなるのかがわかるのはなんでなの、そんなことできるの、神様にお願いをして元気な子が産まれたこともあるんだよ」
「なぜわかるのだろうな、だが、酒まで飲ませてもらって言うのもなんだがあいつは嫌なやつだ、何度かあいつがこれからのことを言うのを聞いたが、人が悲しむことしか言わん、そのようなことばかりを言ってなにが楽しいのだ、あいつがこれからのことを言うとき、いつもつまらん気持ちになった」
人が悲しむことしか言わない……そうだ、それがあの嘘つきとその子との違いだ。
雨が降ることをみんなが望んでいたとき、あいつの子は朝になると雨が降ると言った。雨は降らなかった。乾いた土がずっと乾いたままなの朝、みんなが落ち込んだ。神様を知らないからだと、僕もそう思ったんだ。
あの嘘つきは、みんなが望んでいることを言わない。よくないことが起こると言う。
よくないことが起こると言えば、そうなるかならないかのどっちか。よくないことが起これば、さすが神様の子だとみんなが言う。起こらなかったら……神様にお願いをしてそうしてもらったと言えばいい。さすが神様の子だと尊敬される。
いいことが起こると言えば、そうならなかったとき、神様にお願いをして、いいことが起こらないようにしてもらったとは言えない。恨まれるだけだ。
……ふざけんな。あいつはずっと嘘を言っていた。
酷い目にあわせてやる。あいつのすべてを奪ってやる。
「村へ行く、僕は村に行って、村を奪う」