六幕 狼の岩場
「た、た頼む、こ殺さないでくれ」
……なんだあの動きは。この乱暴者に逆らってはいけない。
先に見つけたのは僕。それは間違いない。小高い丘のてっぺんで、のろのろ動くこいつらを見つけた。追い抜かれた覚えはない。
それなのに、こいつらの右の茂みから、なんでこの乱暴者は跳ね出てこれたんだ。
着地と蹴りがほとんど同じ。蹴り飛ばされて倒れたやつに覆いかぶさってすぐに立ち上がった。僕が着いたときには、4つの死体と命乞いをするこいつ。
……あれは狼。穴から出てきた獲物を、1つの迷いのない動きで仕留める。考えて動いていない。決まっているんだ。なにをするのかが決まっている。どう狩るのかを決めて、当てが外れることを考えもしない。
命を奪うことで生きのびる狼。これが狩人か。畠仕事をする人とは違う。遊びながら殺す蛮族でもない。
こいつら二人は僕を殺そうとした。くそっ、神様に食べられていない。まだ神様は怒ったまま。村のやつらに見つかったら、僕は神様に食べられる。
左胸を突き刺されたこいつは蹴られたやつ。喉を切られたこいつは乱暴者が茂みから出たときにやられたのか。
残るは一人。立ち上がろうともしない。
瞬きする間に、さっきまで一緒に歩いていた人が二人も殺された。これまで見てきた死とは違う。予感のない死。
この人は死ぬと思いながら見届ける死ではない。飢えて弱り、蛮族に襲われ、人は死ぬ。だけど、この乱暴者が見せたのは、村の中での死とは違う。横にいたなら、僕もこいつのように震えを止めることはできないだろう。
「な、なんでもするから、信じてくれ」
はあっ、信じる、ふざけんな。おまえらは自分たちが生きるために僕を殺そうとしたんだ。僕が神様を怒らせたわけでもないのに。それなのに信じてくれなんてよく言うな。
ふざけんな。僕が殺してやる。僕も自分が生きるためにおまえを殺そうとするだけだ。文句ないだろう。
「待て、少しこいつと話をしたい」
なにを言うか。話すことなんてない。信じると逃げられる。こいつは村に戻って、僕たちのことを言う。川の守りがたくさん来て、僕たちは殺されてしまう。
われらが生きるは守るため
守るためならわれらを殺す
麦を育てぬわれらが食うのは
われらを食わす麦のため
飢えのときでも麦を食う
守るためには飢えられん
飢えでは死なぬがわれらも殺す
あんたは強いよ。まさに狩人だ。生きるための戦いをする。
でもね、川の守りは違う。捨て身なんだよ。自分が死んだって構わない。殺されても蛮族の動きを止めて、他の人に仕留めてもらう。川の守りは仲間の命を奪ってでも蛮族を殺す。
あんたは強い。でも、多くの川の守りを殺したとしても、僕らは生きのびることができない。
……大きな目。
「こいつを殺すのはいつでもできる、覚えておけ、ただ命を奪うのが狩りではない、いつ奪うのかも考えねばならん」
なにか考えがある。こいつを利用するつもりか。
「なんでもすると言ったな、ならば、神の子と嘘を言っているやつを殺せ、そいつの子でもよいぞ、そうすれば、おまえは村にいられなくなる、おまえを信じるのはそれからだ」
「わかった」
嘘だ。返事が早い。悩まずに言った。こいつはそんなことをしない。村に戻りさえすればどうにでもなると思っているに違いない。顔にも声にも余裕が生まれている。
「こいつだけ村に入っても見張れないし、偉い人を殺したかどうかなんてわからないよ」
「……どうすればいい、ですか」
「わしだけを村に連れていけ、仲よいふりをしろ、わしはおまえの肩と首から手を離さん、いつでもおまえを殺せることはわかっているだろう」
「……わかりました」
なるほど。僕が村の外で待っていれば大きな騒ぎにならない。村の様子も探りやすい。川の守りを相手に戦うのは避けないといけないと思っている。よかった。
……この人を信じよう。
僕を村に連れていかない。僕を利用しないということ。
生きている僕を偉い人に渡せば、お礼がある。
神様に僕を食べてもらって、怒りをおさめてもらう。村のやつらが死ななくてもいいように願うことができる。村を助けた人になり、この乱暴者は尊敬される。
こんなに強いんだ。川の守りの首領にも気に入ってもらえるだろう。
堅い石は、太陽の光と熱を宿す。きれいなのは、よく磨かれたからではなく、この右手にあるから。偽りのない心が、この刀をなによりもきれいにした。
この人が村に入る。こいつと仲よくなったことにして村のあちこちを見てまわる。偉い人を殺すことはないだろう。僕が生きているどころの騒ぎではなくなる。村の様子を探って、これからどうするかを考える。
……上手くいかない。死体はどうする。
僕を殺して村に戻るはずだった二人の死体。村までの道のりは長い。わざわざここまで運んできたのは、偉い人に見せるため。二人が死んでいたなら、その死体を村まで運べと命令されていたに違いない。
「死体はどうするの、こいつは、あの二人の死体を偉い人に見せないといけないはずだよ、こいつから手を離さないなら死体を運べないよね、こいつが死体を2つ運べるとしても仲いい人が手伝っていないのは怪しすぎる」
「死体を運ぶ必要はなかろう」
「こいつが死体を運んできたのは命令されていたからだよ、ただ様子を見るだけなら一人でもよかったはず、それなのに三人も寄越したのは二人分の死体を運ぶため、あの二人と一緒でないなら、村に戻るときには死体を運んでないといけない、こいつと一緒に来た二人もいないし」
「そのような命令はされてない、信じてください」
黙れ。嘘をつくな。ここまで重い死体を2つも運んできたのはなんのためだ。くそっ、言葉が声にならない。
「ふむ、死体は放っておいて狼にやればよいと思っていたのだが、こいつと村に入っても仕方ないか、ならば、もう1つ死体を狼にくれてやるか」
僕がやる。この刀で。
「ま……待ってください、必ずお役に立ちますので」
「どうやってだ、こいつが言うように、おまえ一人を連れて村に入っても意味がなかろう、飢えた狼の腹を満たしてやればわしの相手が減る、役に立つとはそういうことだ、狼の匂いもあるしな、ちょうどよい」
「匂いがするの、僕にはわからないけど」
「かすかにな、なわばりに入ったくらいのことはわかる、あの岩にいたのはそれほど前のことではなかろう」
岩場に潜む狼。腹を満たすものを狙う狼。狼か……いける。死体を見せなくてもいい。
「狼を使おう、狼に襲われたことにして、こいつ一人だけが狩人に助けられて生きのびた、そのお礼をしたいから村に連れて……」
狼に襲われて逃げた。だから、死体を運べなかった。これで死体を見せなくてもいい。
いや、偉い人がいる。あの人はほんとうのことがわかる。神様に聞くことができる。嘘を見抜く。
ーーこいつを神様にお渡しする、人が神様を怒らせた、いつもと違うものをお渡しせねばならぬ、そうすれば、わたしの話を聞いてくださり、災いも小さくなろう。
……ばれない。偉い人は神様に聞けない。僕を食べていない神様はまだ怒ったままだ。
そうだ。もしこの乱暴者のことを知っているなら、ここに川の守りが来ているはず。ここに4つの死体があるということは、神様になにも聞けていないということ。
……僕が生きていることも、偉い人は知らない。ここに三人も寄越したのは、早く二人を見つけるため。死体を運ぶように命令したのは、念のため。
土中に棲む毒蛇が
根を抜く指に腹立てる
咬みつくために開けて待たれた
濡れた口
そこに指を入れることを恐れては
草にすべてを奪われる
ーー下手に考えれば場を見る目が濁る、見なければならんものを見なくなる。
虫に狙いを定めた鳥は羽ばたかず、狼のような狩人は前を見るのみ。
走ると決めたとき、僕はたしかに狩人だった。
「おい、なに黙っているのだ」
「僕は殺されて神様のところに行ったことにしよう、二人は村へ戻る途中で狼の群れに襲われて一人が死んだ、もう一人は木の上で夜を生きのびた、朝になってこいつら三人がやって来て話を聞いた、四人一緒に村へ戻る途中で狼の群れに襲われた、三人が殺されたところに狩人がやって来て狼を退治した」
「なるほど、そうすれば死体を運ばずに村に入れる、ところで、なぜおまえが殺されたことにするのだ」
「僕は神様の怒りをおさめるために殺されるはずだった、僕が死んでいるなら騒ぎにもならない」
目が細くなった。仕留める喜びに満ちた狩人の目。
「それであれば村で人を殺すこともないな、わしは頃合いを見て狩人に戻ると言えばよい、だが、こいつを村に残すことはできん、褒美の代わりにこいつを連れていきたいと頼めばよかろう、おい、おまえ、それでよいな」
「はっ、はい」
狩った。こいつは利用されて死ぬ。この乱暴者は村を出てすぐにこいつを殺す。僕はこの乱暴者と一緒に狩人になればいい。
そう、きれいな刀を右手に持ったとき、僕は狩人になったんだ。