五幕 決断の原
速い。
村の誰よりも速い。あんなに腕を振っているのに頭が動かない。曲げた肘が高い。ほとんど片足が見えない。膝も腹のところまで上げているのか。こんな走りをする人は初めて。
……たしかにこれは速い。誰かに押されているようだ。体がどんどん前へ行く。地面を蹴るから、宙に浮く。
こんなにも速く走れたのか。僕の体ではないみたい。僕は、僕の体の使い方を知らなかった。
片足で高く遠くまで跳び、両足で倒木に降りて、そのまま両足で跳ぶ。
……これは難しい。少し前の地面を見て、どこに足をやるのかを考えないといけない。このあたりを走り慣れていないと、あんなに上手くはいかない。これがさっき言っていた、場に合うということなのだろうか。
村の暮らしでは身につかないもの。獲物を追う狩人は、他にもいろいろなことを知っているのだろう。蛮族の前で、村の大きい人がなにもできないのは仕方ない。川の守りがいなければ、畠でとれたものはすべて奪われる。当たり前だ。
顔にあたる空気が重い。だけど、気持ちいい。
前だけを見ているのに、見えるものがほとんど変わらなくても、常に違う。
空はこんなにも澄んでいたのか。雲はこんなにも動いていたのか。土だけを見ていた僕は、なにも見ていなかった。
走ることは、僕を敏感にする。
胸の奥がこんなに大きな音を立てるなんて初めてだ。脇腹の肉がちぎれそうなくらい痛い。息ができない。
さっき食べた肉の匂いが喉を遡ってくる。でも、吐き出してはいけない。村のみんなに見つかったら、僕は狙われる。あいつを体にしているからこそ、僕は生きることを諦めないでいられるはずだ。
「こ、ここは……」
あそこは……見間違えるはずがない、僕が殺されそうになった場所。なんでこんなところに。
「む、村に、い行くんじゃ」
「さっきも言っただろう、わしはおまえの村がどこにあるかを知らん、おまえが案内しろ」
吸い込む空気が冷たい雨のよう。喉奥が潤う。
「なんで、ここに来たの」
「村から誰か来るはずだ、その様子を見ておきたい」
よかった。少しは考えていたんだ。
「おかしい、やつらの死体がない、よほど腹を空かせた狼どもが来たのか」
「あいつらはほんとうに死んだの」
「それは間違いない」
「近づいてみようよ」
狼が来たのなら骨の1つは残っているはず。骨があるかどうか。骨があれば、あいつらは狼の体になった。骨がなければ、死体がどこかへ逃げた。いや、死体は歩かない。自分で動くはずがない。
……神様、僕の代わりにあいつら二人を食べた。そうだ、そうに違いない。怒った神様をなだめるために僕を選んだのは偉い人。神様が僕を食べたいと言ったわけではない。きっと誰でもいいはず。
神様は二人も食べた。もう怒りはおさまった。村に帰っても、僕は食べられる必要がないということ。
「骨がない」
「神様のところへ行ったんだよ」
ここで、まさにこの場所で、僕は殺される寸前だった。殺そうとした二人はここで死に、二人を殺したのがこの乱暴者。ずっと前には羊のように殺された人。その人が産んだ人から産まれた僕は、生きている。
生と死はほんのわずかな違いにすぎない。命が消える騒ぎの跡はどこにもなく、ただ静かな大地がここにあるだけ。この土はどれだけの血を飲み、この草はどれだけの死を見てきたのだろう。草場の夜虫は死を歌い、月に知らせる。咆哮は瞬く星に吸い込まれる。夜の静けさは音を飲み込み、朝には死の跡がすべて消えた。
「いや、誰かが、おそらく村のやつらが見つけて埋めたのだろう、二人分の死体が消えたのだから一人ではないはずだ」
眉間に皮が集まり、上下の歯を強く合わせた横顔は、少しの動きも見逃さない狩人のもの。今あるものを見逃さず獲物を狩る。息遣いがとても静か。まるでここにいないよう。
「神のところへ行ったという決めつけは目を濁らせる、今は村のやつらの仕業だと考えておけ」
「埋めたのかを確かめるのはどう、掘り返された土を探せばいい」
「この近くに埋めたとは限らん、死体を村まで運んだかもしれん、だとすれば、埋められたところを探しても無駄だ、村へ行くぞ、案内しろ」
「……うん」
村の人が死体を見つけたのなら、どうなるのか。
僕が殺されそうになったのは、たしか太陽が強くなる少し前。あいつら二人は、太陽が沈む前には村に帰っているはずだった。
夜になっても帰ってこない。なにかがあったと考える。偉い人は神様に願えず、誰かを寄越そうとする。一人ではない。神様に願えるのかどうかを確かめることは、とても大事なこと。一人に任せるはずがない。
……そう、僕を殺したかどうかは、村のみんなにとって、自分たちの命と同じくらい大事なこと。
くそっ。村のみんな、いや村のやつらは僕の死をなによりも望んでいる。僕には帰る村がない。土中深くの根を抜いたあの畠。再び草が生い茂る。
村からここまでは遠く、夜の移動はないだろう。朝の光が夜空を薄くする頃、村を出る。僕たちがここに着く少し前、死体を見つけた。村に戻る途中のやつらは、まだ近くにいる。
……どっちだ。
村までまっすぐ向かって、そいつらに会う。それとも、遠まわりして行く。
乱暴者は村までの行き方を知らない。会うか、会わないか。いや、違う。戦うか、戦わないか。僕が決めるんだ。
小指を踏みつぶしたかかとの感触。
顎をとらえた頭の痛み。
僕とは違う血の匂い。
体中の肉が震え、骨が冷たくなる。1つの動きが次の動きを生み、僕の動きに、思いに、相手が反応する。僕の中には相手がいて、きっと相手の中には僕がいる。
僕は、もう一人の僕に会った。
戦う……今度は乱暴者と一緒に。
そうだ、乱暴者があいつら二人を殺したことを、村は知らない。
手を縛られた小さい人が、刀を持つ大きい人、それも二人から逃げられるはずがない。だから、村は、途中で怪我をしたり、迷ったりして帰ってくるのが遅くなったあの二人を探すために、人を寄越す。僕を殺したという報告を早く聞きたいだけだ。
殺されたなんて思うことはない。戦うために人を寄越すのではない……川の守りを使うことはない。
村に戻る途中を襲えば、そいつらを殺せば、警戒されるのが遅くなる。村を出た大きい人たちが二度も続けて戻ってこない。大きな騒ぎになる。村が凶暴な蛮族に囲まれている……僕のことを気にしている場合ではない。
「走るよ」
「うむ、少し待て、狩りには刀がいる、おまえにやろう、2つもいらん」
あの刀。僕を死なすものが、今度は僕を生かすものになる。とてもきれい。
「前を走れ」
これは狩りだ。人を狩る。手に入れるのは僕の命。なにかの命ではなく、僕自身の命を手に入れる。死なないため、生き続けるための狩りだ。
足跡を見逃すな。踏まれた草、折れた枝。人の匂いはわかりにくいから目がすべて。目を閉じて鼻で息を吸う暇はない。匂いはどうでもいい。
目を開け続けろ。