四幕 洞穴の朝
差し込む光がまだあたたかくない。あんなに臭かった匂いが気にならない。鼻が蛮族の洞穴に慣れたのだろうか。こうして僕は少しずつ蛮族になっていく。
いろんな匂いの中に潜む、太陽にあたったばかりの草の匂い。鳥が鳴いている。かすかな高い音。
とても静か。誰も声を荒げてない。苛立つ人は誰もいない。こんなに静かな朝はいつ以来だろう。うるさい人はどこにもいない。
「これを食べろ」
……あの羊。ほんとうにくれるのか。しかも大きい。
神様に食べられたかったこいつ、まさかこうなるなんて思ってもいなかっただろうに。こいつが僕の体になって、僕が神様に食べられれば、一緒に神様に食べられたということ。きっとそれを望んでいるんだろう。
でもな、そうはさせない。僕は神様に食べられない。
噛むほどに力が湧いてくる。今、こいつは僕の血と肉になった。僕は、さっきまでの僕とは違う。肉を噛む歯は牙となり、ぬらぬらした口の中は味を求めて濡れている。
「食べたらおまえの村へ行く」
えっ……まさか僕も一緒にか。それは困る。
「お願い、僕は帰れないんだ」
「おまえ、わしと共にいたいと言っただろう、わしはよいぞと言った、わしはおまえの村を見たいが、どこにあるかを知らん、案内をしろ」
「なんで」
「川のほうへ行けばいくつかの村があることは知っている、だが、どれがおまえの村なのかはわからん、いくつもの村をまわるのは面倒だ、おまえが案内したほうが早い」
「いや、そうではなくて、なんで村を見たいの」
「おまえの話を聞いて様子を見ておかねばならんと思った、おまえを殺したことを伝えなければならないやつらが戻ってこない、騒ぎになるのではないか」
「……あの二人を殺したの」
「殺した、だから、おまえがここにいる」
そうだ。この人は蛮族。むしろ僕が生かされているのが不思議なくらいだ。
……危ない。あの二人は僕を殺したらすぐに村へ帰り、偉い人に報告することになっていたはず。僕が神様のところへ行き、食べられ、神様の怒りがおさまった後、偉い人は願いを伝える。
あの二人が帰ってこない。僕が神様のところへ行ったのかがわからない。神様にお願いができない。眠らないまま、村は来るはずのない報告を待ち続ける。
肉の味がしない。噛む力が顎から消えた。
僕が逃げ出した。遠くへ行かないうちに早く捕まえないといけない。今度は川の守りが僕を殺そうと動く。
「偉い人が川の守り、強い人たちを集めていると思う」
村のみんなの命がかかっている。騒々しい村は、生きるために僕を生かさない。
「せめて他の人が来てから一緒に行こうよ」
「川の守りか、そろそろ声をかけているかもしれんな、ところで、他の人とは誰のことだ」
「いつも一緒にいる人たちだよ、村を襲うときは一人ではないでしょう」
……おかしい。誰もいない。朝になったのに他の蛮族がいない。そういえば、この洞穴も大きくない。村を襲うとき以外は一緒にいないとしても、少なくとも誰か一人くらいは近くにいるはずじゃないか。なのに、いくらなんでも静かすぎる。
鳥の高い鳴き声が、こんなにも不安にさせるのは、誰も同じ音を聴いていないから。
「わしは一人だ、村を襲ったことはない」
「……戦い続けたと言ってたよね、あれは嘘なの」
「嘘でない、多くの命と戦ってきた、川の守りともな」
「川の守りと戦ってきた……わかった、どこかの村の川の守りだったんだ、村と村の戦争、もう終わったからここにいるんでしょ、まだ帰らないの、長い根を抜くことができるよ、役立つから僕も」
「わしはずっと狩人だ」
狩人……ふらふらと放浪し、獲物を探しまわる人。狼のように肉だけを好み、運にまかせて生きのびようとする。先のことを考える知恵も勤勉さもなく、どんな畠仕事も任せられない怠け者。
「狩りの邪魔であれば川の守りと戦うこともある」
目が細くなった。なにが楽しいんだ。僕はまったく楽しくないぞ。
「わしの機嫌が悪いときに出くわした川の守りは、不運であったと諦めてもらう」
……ただの喧嘩好きな乱暴者じゃないか。こんなのと一緒に村の様子を見ることなんてできない。どうせなにも考えずに暴れて終わりだ。
なにを楽しそうにしている。あんた、ただ暴れたいだけなんだろう。
「誰か仲間はいないの、狩人がたくさん集まって村を襲うんでしょう、そういう仲間はいないの」
「さっきも言っただろう、わしは村を襲わん、興味がない、わしはわしの力で生きる、他のやつのおかげで生きるのは好かん、他の狩人と共にいたこともあったが、それも気に入ったやつとだけだ」
なにを言っているんだ。
「畠の村では気に入らんやつのためになにかをせねばならんのだろう、気に入らんやつのおかげで食べていけるのだろう、村を襲うやつらも同じことだ、ただ生きるだけなら獣と変わらん、どのように生きるかを決められん暮らしをわしは嫌う」
好き嫌いしか言っていないじゃないか。村を襲う蛮族のほうがまともなんじゃないか。狼ですら群れで生きようとするんだ。
一匹狼と羊の子。最悪だ。
「村に行くのはやめよう、危ないよ」
「なにもせずにここにいれば、そのうちに村のやつらが攻めてくるかもしれん、いつ来るかもわからんやつらを相手にするのは賢くない」
「遠くに逃げようよ」
「逃げてどうする、他のところで同じように狩りができるかはわからんぞ」
「森に行けばいいんだよ、皮をはいだら木が腐って小さな畠になるって聞いたことがある」
……こいつは狩人だった。畠仕事なんてできっこない。意味のないことを言ってしまった。
「そういう方法があることは知っている、しばらくすれば土がやせてくるから焼かねばならんこともな、そうすると目立つだろう、どうせ逃げ切れん」
風が吹き
大地は乾く
岩は備え
重みを増す
木々は縮み
小鳥は怯え
まもなく来たる
災いを待たん
災いの神様。どうか、今すぐ村に来てください。村に着くまでに、この乱暴者が諦めるくらいのわかりやすさで、強い風を吹かせて空から大粒の涙を落としてください。文字を知らない僕の祈りが逆鱗に触れ、今すぐ怒りの嵐が村を襲うことを願います。
「まだ眠いのか、目を開けろ」
「村に行ってどうするの」
「言っただろう、まずは様子を見る、どうするのかを考えるのはそれからだ」
「考えようよ、一番いいやり方を」
「覚えておけ、狩りの一番よいやり方は場に合うやり方だ、場を知らぬうちに考えたところで上手くいかん、下手に考えれば場を見る目が濁る、見なければならんものを見なくなる」
「狩りじゃないよ……」
先のことを考えてから動こうよ。
「早く食べろ、もう行くぞ、動きながら食べることも狩人には必要だ、そのために手がある」
待ってよ、いきなり走んないでよ。もっとゆっくり走ってよ。見失うじゃないか。