三幕 洞穴の夕暮れ
「起きたか」
変な匂い。昼と夜が混ざるような、朝露を残したままの夕暮れ。すべての匂いをたくわえた、なにもどこにも出ていかない不快な空気の重なり。
淀み。
濁り。
これと似ているのは……すべて。あらゆる匂いが蓄積している。ここでなされたことすべてが、ここに残る。葉を燃やした匂い。湿った土。細い木が積まれ、割れた石の中身は色が重なり……この人は誰だ。
「なにか言ったらどうなのだ、おまえ、今の状況をわかっているのか」
大きい人。でも、なにかが違う。そうか、頬の肉のつき方。目も大きい。なんだこれは。人なのか。髪の色が薄い。若くはない。でも、長く生きた人とは違う色。こんなに肩がふくらんでいるのも変だ。
「なにもわかっていないのだろう、ならば問え、せめて驚け」
こんなのは久しぶり。僕を見ている。僕の目が見られている。
黒目の動き1つも見逃してくれない。動けない。睨まれた小動物が、逃げ出すことなく、ただ食べられるのを待つ。決して望んでいるわけでない。だけど、変わることへの恐怖が変えることを拒否する。
今、この人は僕の目に映るものも見ている。僕が見ようとするものを、なに1つもらさない。僕の目は、この人の目。背後から石を投げつけられても、きっと僕よりも早く動き、石は僕の額に直撃する。僕はなにもできない。
「……あなたは」
「なんだ」
「……僕をどうするの」
「今から決める、おまえはどうしてほしい」
「……僕は」
「なんだ」
「死にたくない」
「そんなことを聞きたいわけではない、どうしてほしいかを聞きたいのだ、そんな当たり前のことを言ってどうしたい、おまえはどうしてほしい、おまえの村に帰してほしいのか、それとも違うところへ行きたいのか、なにが食べたい、なにをしたい、そういったことを言え、わしにいちいち考えさせるな」
羊の子
羊になれない羊の子
「僕は村に帰れない、羊と一緒に神様に食べられるのが嫌だから逃げた」
そう、僕は逃げられなかったんだ。あの刀で殺された。
「ここは神様のところですか、あなたは神様、僕と羊を食べる……」
「おまえと一緒にいた羊はわしのものだ、わしが食べる、おまえも食べたかったら言えよ、分けてやる」
「神様は僕を食べるのに、なんで羊をくれるのですか」
「わしは人を食べないし、神でもない、神の友かもしれないがな」
神様の友……神様が近くにいる。ここが神様のところ。
汚い。
枝、石、骨、いろいろなものが散乱している。まったく整えられていない。お世話役はなにをしている。
こんなところで僕は、羊と一緒に神様に食べられるのを待つ。いや、羊はこの人に食べられる。僕にもくれる。どういうこと。もしかしたら、神様は羊が嫌いなんだろうか。でも、だったら、なんで偉い人は羊を渡し続けてきた。とてもたくさんの羊を。あれはなんだったのか。
ここは神様のところ。死なないと来れない。偉い人は来たことがない。神様が羊をこの人に食べさせていることを、偉い人は見ていないし、聞かされてもいないんだ。
……偉い人でも知らないことがある。もしかしたら、神様は僕を食べないのかもしれない。きっとそうだ。神様には体がないのだから。
「教えてください、僕は神様に……」
「わしはおまえにどうしてほしいと聞いているのだ、先に答えろ」
「教えて……ほしいです、僕は神様に食べられるのですか」
「知らん」
「これまでにもたくさんの人を神様に会わせてきたのでしょう、その人たちがどうなったのかを知っているはずです、ほんとうのことを教えてください、僕はどうなるのですか」
「わしは神のところへ行かん、会わすことができるものか」
からかっている。神様の友だと言ったじゃないか。なのに、会いにいかない。おかしいでしょう。
眩しい。洞穴の出口から、二筋の光の線。太陽の明るさだけがここに届いた。熱を外に置いてきたのだろう。
なにかいる。
見られている。
あれは……黒目のように滑らかな、あの刀だ。僕を殺した刀がなんでここにある。
「ああ、これはわしのものだ」
……あれがあるということは、ここは神様のところではない。そうだ。死にたくないと言えば当たり前だと返され、村に帰してほしいのかとも言われた。死人に向けた言葉ではない。
神様の友……偉い人か。他の村の偉い人。神様と話すことができるから神様の友。
「僕は殺されなかったのですか」
「おまえ、今、息をしているだろう、胸の奥も動いているだろう、殺されてない、殺されかけていたがな」
「僕を助けてくれたのですね、ありがとうございます」
村からあそこまで長いこと歩いた。他の村の近くだったんだ。刀が僕の体に入る寸前、この偉い人が止めてくれた。
ここには僕しかいない。あの二人を村に帰して僕だけが残され……僕は、この人の村で暮らすことになる。もしかしたら、僕を産んだ人がそこにいるかもしれない。
ーーおまえが畠に出るまで一緒にいさせてほしいってね、お願いをしたの、その後はどうなってもいいって。
……他の村へ行ったらどうなる。なにをされ、なにをしないといけない。食べものはあるのか。冷たい雨をしのぐことはできるのか。熱は入らず、体は冷えるばかり。あの人はまだ生きているのか。僕は死なないでいられるのか。
そこになかったものは、そこにあったものとは違う。新たに埋められた種は、草の責めから逃れるために人を要する。群狼は一匹狼に容赦ない。そう、すべてはあるがままを望むんだ。変わることを嫌う。余所者はなにかを変える種。余所者は、余所者だから苦しめられる。
「わしは羊がほしかった」
血の匂い。間違いない。この洞穴には血の匂いが混ざっている。それも、人の血。
「そのようなときに羊を連れたやつらがいた、ちょうどよいところだった」
悪臭の元はこの人。
「おまえのおかげであいつらの動きの悪さがわかった、一人は体を傷め、二人ともわしに気づいてすらいなかった、そうなったら羊はわしのものだ、だから、羊はわしのものであるけれども、前脚くらいはおまえの手柄と言ってもよかろう」
雄叫び。怒声。破壊。泣き声。人を引きずりまわし笑う顔……僕は助かっていない。こいつら蛮族は奪うだけ。
災いは祝い
祝いは災い
神様の怒りは空を泣かせ、水と風が多くを奪う。だけど、その後の収穫が人を生かす。
神様は、奪い、与える。
こいつら蛮族は奪うだけ。神様の真似をして奪うけど、なにも与えない飛蝗。
奪う。僕を生かしたのもそのためだ。僕を利用し、なにを奪う。
「……僕はどうすればいいの」
「おまえはどうしてほしいのだ、さっきから何度も言わせるな、おまえがわしに問うてどうする、おまえがわしにできることはあるのか、ないなら問うな」
考えろ。どうすればいい。こいつの機嫌を損ねると死ぬ。殺されるだけでは済まない。ひどく痛めつけられる。こいつら蛮族の楽しみは、人が泣き苦しむこと。腹を傷つけ、手を入れて掻きまわす。腸を持ち主の口に押し込み、咀嚼を強いる。
「なんで僕を連れてきたの」
「賢いやつだと思ったからだ、羊を見つけ、わしは様子を見ていた、おまえの暴れ方は賢かった、そして、おまえの言ったことを聞いて話してみたいと思った」
ーーいつか聞いてくれる人にも会える。
……僕は会えた。
あのとき、たしかに僕はなにかを言おうとしていた。背の高い草、大きな石、死体を狙う鳥は舞っていたのか、それとも僕をついばむところだったのか。
なにを言ったのだろう。思い出せない。なにを言おうとしたのだろうか。なんで言おうとしたのだろうか。
「僕は偉い人じゃないよ、偉い人の子でもない、文字も知らないし、賢くない」
だから、あんたを楽しませることを言えるわけでもないし、僕を利用したところで村からはなにも奪えない。こんなに人と話をするのも久しぶりなんだ。喉の奥がからからして、声を上手く出せないんだ。
ねえ、教えてよ。あのとき僕はなにを言ったの。僕の言ったことを聞いてくれたんでしょう。人が聞いてくれた僕の言葉を、一番聞いてみたいと思っているのは僕なんだ。
「賢いと偉いは違う、わしは畠の村の偉いやつは好かん」
風が熱を運んできた。外に置き忘れられていた太陽の欠片。外の光がさらに差し込む。今日に別れを告げる最後の明かり。食べごろの果実のような熟れた太陽が、今にも崩れそうなゆらめきを見せていることだろう。
「すべてのものは神のおかげでここにある、ここにあるものすべてが神のお気に入りだ、だから、ここにあり続けるものは特に神が気に入っているものだ」
神様の力で生かされている。だから、神様の言葉、文字を知らない人は、文字を知る人の言うことに従わないといけない。逆らったり不満に思ったりしてはいけない。羊のように死ねと言われれば、わかりました、決して逃げ出しません、喜んで神様に食べられましょう……でも、僕はおそろしかったんだ。
目が細くなった。狙いを定めた蛮族の笑み。そうだ、こいつは蛮族。なんで偉い人と同じようなことを言うんだ。文字を知るはずがない。神様のことを知っているわけがない。神様のために働く人からただ奪うだけの、神様から最も遠いもの。
「畠の村の偉いやつよりもわしのほうが強い、戦ったときに生きるのはわしだ、だから、わしのほうが神のお気に入りなのだ、わしは戦って生き続けた、神が友と認めてくれているからではないか」
はっ、なんだそれは。人を殺して暴れまわって畠で働くこともなく奪って生きているやつがなにを言う。
「それなのに、畠の村の偉いやつは自分のことを神の子だと嘘を言っているらしいな、だったら、わしと戦って生きてみろと思う」
……嘘。なんだろう。この音に覚えがある。誰が言っていたのだったか。おかしい、思い出せない。耳に残る感じが、そんなに前ではないと教えてくれている。
神様のお気に入りは生き続ける。僕も神様のお気に入り。羊の子と呼ばれる僕も。
いや、こいつは蛮族。まともなやつではない。ふざけたことを言っている。
……僕を殺そうとした人と、僕を生かした人。言いたいことを言えない村と、僕と話したがる蛮族。神様のお世話役になれない僕と、神様のお気に入りの僕。
騙されるな。こいつは蛮族。食い散らかすだけの飛蝗。殺されそうだったのに生きている僕を喜ばし、都合よく利用しようとしているだけ。
おまえは知らない。僕は羊になれない羊の子。神様のお気に入りだなんて調子のいいことを言うな。
「僕を産んだ人を産んだ人はあの場所で死んだんだ、羊みたいに殺されたって聞いた、偉い人が神様の怒りをおさめるために渡した、殺されたんだから神様に嫌われたということでしょう、そんな人の子から産まれた僕は神様のお気に入りであるはずがない」
「神は人を嫌うほど暇ではない、人や獣がどんなやつかをいちいち気にするほど暇ではない、戦ったときに生き残ったほうがより気に入られているとわかるだけだ、その人は戦ったのか」
「……戦ってないと思う」
「そうだろうな、ただ殺されただけなんだろう、殺されるまで生きていて子を産んだ、少なくともそれまでは神に気に入られていたはずだ、そして、戦わずに死んだ、戦わずに死んだ人について神がどのように思っているかはわからない」
石で石を割り
欠けたものの尖りが肉を切る
愚かな者は
尖るものを祝いとするが
わが村人たちは
尖らぬものを祝いなさい
いずれの石も
欠けるまでは祝福の石
肉切る力の惑わしに
惑うことなく石を見よ
「僕はどうすればいいの」
「おまえ、それしか言わんな、好きにしろ、なにがしたいのかを言え」
「僕は村に帰れない」
「おまえは暴れていたとき、どうしようと思っていたのだ」
あのときの僕は……神様に食べられなければなんでもいいと思っていた。ただそれだけ。逃げた先で飢えて死に、鳥に食べられてもいいとさえ思っていた。いつか土になっても、形を変えるだけで僕がここにあることに変わりはない。
でも、今は違う。神様に食べられなくて済むと決まれば、今は死にたくない。
死んだらどうなるのかわからない。畠に出る前、羊を少しもらって食べた。羊は僕の体になった。だけど、僕の中にいる羊を感じることはまったくない。僕が死んで鳥に食べられたとき、僕は鳥の体になって空を飛ぶけれど、そのとき僕はなにを思うのか。
……まったくわからない。おそろしい。死ぬのは、おそろしい。