二幕 贄の原
風が吹いたことを耳で知る。空気の動きに敏感な形の葉が、隣の葉を擦っている。
思えば、同じ場所でじっとしてきた僕は、肩肌をくすぐる空気の揺れには敏感だった。歩くことが僕を鈍感にする。きっと神様のところへ向かうのに支障がないよう、感覚が1つずつ、着実に、薄らいでいくのだろう。
もうすぐ太陽が一番強くなる。皮を焼く痛みがなくなるのなら、鈍いままでいい。
ここには来たことがある。僕を産んだ人を産んだ人が死んだ場所。
川から離れ、畠もなく、人の呼吸からは程遠い。背の高い草、大きな石、頭上には死体を狙う鳥。
ーーとてもきれいな人だったのよ、みんなによくしてもらってね、みんなが言えないことを偉い人に言っても怒られなかった、でも、言いすぎちゃったの、だから、ここで殺されたのよ、羊みたいに。
ーーなんで言いすぎちゃったの。
ーーいい気になっていたんだろうね、覚えておきなさい、言葉はこわいの、言葉が続いちゃうとね、抑えられなくなるの、あたしを産んだ人はそれで死んだんだから。
神様を怒らせたあいつ、いつも言葉が多かった。
でも、あいつは死なない。僕が代わりに死ぬ。
ーーおまえはもう少ししたら畠に出る、大きい人の言うことを聞くのよ、そして、言いたいことがあっても言わないのよ、声を出してはいけない、もうあたしはおまえと一緒にはいられないの、あたしを産んだ人のせいで他の村へ送られることになったの、でも、おまえが畠に出るまで一緒にいさせてほしいってね、お願いをしたの、その後はどうなってもいいって、だから、もうおまえの言うことを聞いてくれる人はいない、でも、いつか聞いてくれる人にも会える、それまではただ聞くだけ。
ーーどうしても言いたいときは。
ーー目を閉じなさい、目を閉じて鼻で息を吸うの、ゆっくりとね、なんの匂いなのかを考えなさい、なにに似ているのかでもいい、そうしたら言いたいことは消える。
なんであのときだけ忘れてしまったんだろう。
「もうすぐ着くぞ」
「こんなところまで来るのか、初めてだから教えてくれよ、帰ったら褒美があるって言ってたろ、なんだろな」
「前のときは、うまいもので腹一杯になって、これをもらったぜ」
堅い石の刀。よく磨かれていて、とてもきれい。くそっ、羊が邪魔で見えにくい。少し右に寄ってくれ。僕を神様のところへ送る刀。生きている僕と最後に触れるもの。僕がここにいたことの証を覚えておきたいんだ。
「おい、おまえ、おまえはこの刀で羊と一緒に神様のところへ行くんだ、あっちで仲よく神様に食べられろよ、いらんことを言うんじゃないぞ」
神様に食べられる……なにを言っている。食べものを作るの間違いだ。神様の畠で草を抜く。これまでとなにも変わらない。
いや、ずっとよくなる。朝は揉め事もなく静かに始まり、高くてきれいな鳥の歌を聴き、急かされることなく仕事をし、暗くなったら一緒に仕事をしている人といろんな話をする。ずっと望んでいたことだ。
神様のところへ行くのはお世話をするため。小さい人が死ぬのはそのためじゃないか。
羊の子
食われるために生かされて
なにも持たずに立ち歩く
「羊の子、おまえ、おれの子を知ってるだろ、あいつらじゃなくって、ずうっと前に死んだほうだ、こないだ偉い人が教えてくれたんだ、あっちで神様の飲みものを作ってるってな、みんな元気にやってるって言っといてくれ」
「なに言ってるんだ、こっちのことは偉い人が言ってくれるんだからこんなやつに頼むな、おい、おまえ、なにも言うんじゃないぞ、おまえはなにも言わずに食べられろ、羊と同じなんだからな」
「それもそうか、まあ、おまえは神様の腹を満たせ、おれの子が作ったものは喉を潤すんだ、おまえは一度しか神様のお役に立たねえけど、おれの子は何度も何度もお役に立つ、はっはっはっ」
気持ち悪い笑い声を止めろ。
小さい人が死んだら神様のお世話をする。小さい人はきれいで、いい匂いがして、だから、神様は側に置いておきたいと思う。神様に選ばれた小さい人は、お世話するのに体が邪魔になるから、大きくなる前に死ぬ。
みんなそうだったじゃないか。
おまえの皮はただ臭い
おまえの毛は少なくて
ーーこいつを神様にお渡しする、人が神様を怒らせた、いつもと違うものをお渡しせねばならぬ、そうすれば、わたしの話を聞いてくださり、災いも小さくなろう。
肉も肝も祈りにならず
羊になれない羊の子
足の重み。皮膚が削れてすぐの血。右頬の熱さ。
僕を指す、日に焼けていない手……僕は神様に選ばれてない。僕は神様に食べられる。
あなたが望むように
わたしは願う
あなたが望むように
わたしは求む
この狭き像へ
色のなき像へ
羊肝の乾くまで
小さき声が枯れるまで
あなたが望む声を
わたしが望む声を
偉い人が神様に願うとき、羊を殺して、神様に石の像へ入ってもらう。神様には体がないから。
小さき者は
さらされること少なし
小さき者は
日の匂いをたくわえん
小さき者は
感じるものすべて新し
小さき者は
体なくとも立ち振る舞う
神様に選ばれた小さい人は、お世話の邪魔になる体を捨てるために死ぬ。神様には体がないから。
麦を食べたら、麦は僕の体になる。でも、神様には体がない。僕は神様の体にならない。僕はどうなる。
神様に食べられた人の歌……聴いたことがない。僕はどうなる。
まったくわからない。おそろしい。
食べるものが少ないと腹が減り、力が出ない。石があたると肌は盛り上がり、血が流れ出る。
わかるだけまし。
わかるということは、それほど変わらないということ。今と同じようなことが続く。
体がない神様に食べられる……まったくわからない。こんなにおそろしいことはない。
……逃げてやる。
神様に食べられるのだけは嫌だ。
逃げた先で死ぬほうがまし。倒れた僕を鳥が食べるだろう。僕は鳥の体になる。その鳥もいつかは食べられる。腐ってただ土になるだけかもしれない。どっちにしろ、今まで見てきたなにかになるだけ。あるがまま。おそろしくはない。わかるから。
逃げてやる。まだ感覚があるうちに。
僕を殺すのは刀を持つほう。僕を縛るものを持つこいつさえどうにかなれば、残るは初めてのほう。
どうにかなれば……違う、どうにかするんだ。
いや、刀を持っているし、僕は縛られている。大きい人と小さい僕。できっこない。
光る空の泣き声は
すべてを流し
土を焼く
そこに残るは
細草のような
小虫のごとき
ものばかり
光は祝い
恵を与う
災いは祝い
祝いは災い
災いの神様。強い命を死なせ、弱い命を生かす。
このまま殺されれば、神様に食べられる。逃げれば、食べられない。
……やるしかない。
なにを見ている。ここにいるぞ。おまえたちを神様に背かせる僕が、おまえたちの背を見ている。決して後ろを見るな。ただ前を見て歩け。振り返るんじゃない。
石を踏め。あれだ。畠よりも濃い色の、畠にあってはいけない石の集まり。僕が畠から逃げるのにちょうどいい。おまえが踏み入ったら、かかとで小指をつぶしてやる。かかとだけで立って、体をひねって跳ねて、頭を顎にあててやる。
あの石だ。空を見上げる雛のような、あの石を踏め。
「痛っ……」
しまった。顎をはずした。まあ、いい。同じ指を踏んでやる。
「んむぐっ……」
「うわ、なんだこいつ、羊の子のくせに、おい、やめろよ」
よし、顎をとらえた。頭がしっかりとくらくらする。
「歯が、おれの歯を」
「おい、羊の子、なにしてやがる」
くそっ、羊め。暴れろよ。血の匂いは嫌だろう。おまえは羊だ。忘れたのか。血の匂いがあったら、逃げないといけない羊だろう。こいつを引きずってでも走れ。
「こいつ、おいっ、どうすんだよ、おいっ」
仕方ない。腹を蹴れば、さすがに動くだろう。どっちに行くか決めたら、そのままこいつを連れて走れ。決して僕を追いかけるなよ。
おいっ、なんでおまえが体をあててくるんだ。なにを考えている。逃げないと神様に食べられてしまうんだ。わからないのか。
……そうか、おまえは神様に食べられたかったのか。ここから逃げても、どうせ生きていられない。僕と一緒に、神様に食べられたかったのか。
おまえ、おそろしくないのか。狼に食べられたっていいじゃないか。狼の体になるだけで、ここにいることに違いはないだろう。
……ああ、ここにいたくないんだな。
くそっ。土の味がまずい。いつもよりも、ずっとまずい。
おい、なんにもできなかったおまえが僕の背に乗るな。羊のおかげなんだよ。おまえが殺そうとした羊のおかげで、おまえは助かったんだよ。僕を退治したとか思ってんじゃねえぞ。
……なにができる。
僕にできることはなにがある。動くのは……口だけ。声を出すことだけが残っている。言うだけだ。なにを言えば助かる。いや、もう助からない。今すぐ殺されるか、少ししてから殺されるか。どっちか。
背の高い草、大きな石、きっと死体を狙う鳥が舞っているんだろう。
ーーもうおまえの言うことを聞いてくれる人はいない、でも、いつか聞いてくれる人にも会える。
……せめて僕の言うことを聞いてくれ。
喉を震わす僕の声よ、少しでもこいつらに届け。首がおかしくなってもいい。もう死ぬんだ。体はどうなってもいい。できるだけ後ろを。空にも声が届くように、もっと後ろを。
「なんで神様は人を殺すんだ、そんな神様に頼ってもいいことないじゃないか、偉い人が言うみたいに神様が人を生かしてくれているんなら、みんなはずっと腹一杯でいられて誰も死なないはずだろう、そのほうが神様だって嬉しいはずじゃないか、偉い人は嘘をついているんじゃないのか」
刀。よく磨かれていて、とてもきれい。
なにも見えない。
また僕は目を閉じたのだろうか。僕を産んだ人に教えてもらったように。